2012年4月
植松主教とまき子さん(熊谷和彦氏撮影)「主教室より」に初めて写真を載せます。私と一緒に写っているのは新冠(にいかっぷ)聖フランシス教会の熊谷まき子さん。六十年前、私はこの方に取り上げてもらって生まれてきたのです。まき子さんは、山梨県清里の聖ルカ診療所で看護婦として働いておられ、医師であった私の母の大事な助手でした。母が私を出産する時、まきちゃんは母の指示に従いながらお産婆さんをし、私のこの世への誕生に立ち合ったのです。
その後、ご縁があって、遠く新冠に嫁いでこられました。母はまきちゃんが去った後、数日間、泣いて暮らしたとのことでした。
十五年前、私が北海道教区の主教として赴任してきて、まきちゃんとの劇的な再会が成ったのです。今私は新冠の管理牧師として毎月のように新冠の教会に行きます。母と同い年である八八歳のまきちゃんは、いつも私が着く数十分も前から教会の玄関で私を待っていて、私が着くと「まこちゃん、まこちゃん」と呼びながら私を抱きしめます。
六十歳の赤ん坊と、彼を取り上げた八八歳のお産婆さん。いい写真でしょう。
主教 ナタナエル 植松 誠
2012年3月
先月、私は還暦を迎えました。道央の教役者有志が祝いにと夕食に誘ってくださいました。赤いちゃんちゃんこを着させられるのではと恐れたのですが、上品な紫色のマフラーをいただき大いに感激しました。
五十代というのと、六十歳になるというのでは、たった一日の違いであっても、私の中では自分の生きる世界が変わったかのような複雑な思いがあります。今まで東京行きの安い航空券を必死で探していたのに、ふと見ると六十歳以上はいつでもシニアとして安く買えることがわかった時、決して嬉しくはなく、自分がそのようなカテゴリーに入ったことに何か信じられない衝撃を覚えるのです。
しかし、ちょうどそのような時に、私は続けて二回、体調を崩して寝込みました。年相応なのだと思い知らされながらも、この大きな変化とは、考えようによっては、シナイでの長い放浪から、ヨルダン川を渡って約束の地に入れていただいたという祝福なのではないかと思い始めています。
今まで、私は年配の方や高齢の方にはそれなりの尊敬をもって接してきたつもりです。でも、それは、私とその方との間の小さなヨルダン川を隔ててでした。自分はこちら側という思いで向こう岸を見ていたように思います。
今もそれらの方々への尊敬の念は変わりません。それなりに失礼のないようにと思いながらも、少し気が楽になっている自分を発見します。隔てるものがなくなって、自分も仲間に入れていただけるのではなどとひそかに期待しています。
2012年3月 主教 ナタナエル 植松 誠
2012年2月
翌日の新冠と平取の主日礼拝をひかえた夜、熱っぽくて少し身体がだるいので早めに床につきましたが、その翌朝、頭痛とひどい咳と喉の痛み。熱を計ると八度三分。一瞬、坐薬か何かを使ってでも行かなくてはと思いましたが、雪の中、片道一四〇キロを運転して午前と午後、二つの教会を回るのはとても無理と判断しました。
内海執事に電話をし、状況を話しますと、「主教さん、無理をしないで。こちらは大丈夫ですから」との優しいお言葉。
結局、その主日の巡回は取り止め、一日、布団の中で過ごしました。三〇年前、聖職に按手されて此の方、日曜日に病気で寝込んだのは、これが初めてでした。日曜日は何があっても教会で礼拝するというのが極めて当然のことであった私にとって、主日に寝込んでいるということは、まるで自分の存在意義を否定されるようなショックな出来事でした。新冠と平取の信徒一人ひとりの顔が浮かんできます。皆に心配をかけてしまう・・。もしかすると、この両教会の信徒は今月、一度も聖餐を受けられないかもしれない。急なことで、内海先生は説教をどうされたのか・・・、などと次から次へといろいろなことが脳裏をよぎります。
これまで当たり前だと思っていた聖職者としての主日の務めですが、改めてその職務の重さを考えさせられました。週日、それぞれの生活の場で一生懸命生きた信徒たちが集まってくる主日礼拝。そこにお仕えする聖職として用いられていることの重さを深く考えさせられた日曜日でした。
2012年2月 主教 ナタナエル 植松 誠
2011年1月
新しい年になりました。教会の暦では元旦は「主イエス命名の日」です。クリスマスから七日目のこの日、あかちゃんに「イエス」という名前がつけられました。「イエス」とは「主は救い」という意味があります。
もう一つ、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)と預言されていたように、名前というよりはイエス様の存在を象徴する呼称として「インマヌエル」という名がありました。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。(マタイ1・23)
今年のお正月、「おめでとう」と言えない、言うのがはばかられるという方々がたくさんいらっしゃると思います。東日本大震災で愛する家族や友人をなくされた方々、津波や放射能汚染で被災された方々、また私たちのすぐそばにも家族をなくされ、喪中だという方や、ご病気、失業、経済的困難の中で悩み苦しんでいる方が多くいらっしゃいます。確かに「おめでとう」とは言えない現実があります。
悲しみや苦しみ、悩みを抱えながら多くの方々がクリスマスを過ごし、お正月を迎えました。しかし、「おめでとう」とはとても言えない私たちのただ中にイエス様はお生まれになり、「主は救い」であり、神様が私たちと共にいてくださると宣言する「主イエス命名の日」から、この一年が始まりました。
この新しい年、何があろうと、何が起ころうと、イエス様が私たちと共におられ、私たちの救いとなってくださることを信じます。
2012年1月 主教 ナタナエル 植松 誠

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