2024年3月

 今年、二度目の北海道での冬を過ごしています。今年は暖冬で大雪という長期予報が出ていましたが、その通りの冬です。
 一度目の冬は、東北で生れ育った私でもさすがに驚く寒さと雪の多さ、また冬の生活の仕方の違いに毎日目を丸くしながら過ごしておりました。最初は面白がっていましたが、降り積もる雪の多さや凍った道を経験している内に、次第にこれまで経験したことのないレベルに圧倒され、家の窓を覆っていく雪の高さに恐れをなしていました。夜中に除雪車の作業音を聞くとありがたいとほっとし、二月頃には窓の外から降り続く雪を眺めては、「この雪が解ける気がしない。」と夫とつぶやく毎日でした。春に北海道に引っ越して来たにもかかわらず、春が再びやってくることに本気で懐疑的でした。
 けれども、本当に雪は解けるのです。どんなに固く凍り、人の背以上に積もって先を見通せないほどの高さの街並みになってしまったとしても、春の陽射しには決して敵わないのです。道民の方にとっては当たり前のことかも知れませんが、春にすべてが解けてゆく様子に私はひたすら心から感動しておりました。
 雪は必ず解けるのは真実だと知ったおかげで、二度目の冬は違っています。真実のおかげで自由な心持ちであり、同じ世界が違って見えます。信仰の基本を経験させてもらっています。
 湖も川も、海さえも凍り、大地が深みまで凍るこの北海道に、もうすぐ春がやってきます。今眼の前に広がる雪や氷に覆われている世界が一層美しく見えます。途中ぐちゃぐちゃの時を経て、必ず春はやってきます。皆さんのところにも必ず春は訪れます。残りの冬の季節を主に守られ、ご無事に過ごされますように。

主教 マリア・グレイス 笹森田鶴

2024年2月

 一月一日に起こった能登半島地震で多くの方々が犠牲となり、また被災された方々が今も日々の生活もままならずに過ごされていることに心痛い思いでおります。大切な生活の場が今まとは全く変わってしまった状況を目の当たりにしながら過ごす日々に、どんなに多くの方々が落胆されていることだろうかとも思います。亡くなられた方々に神さまのみ許での永遠の安らぎが与えられることを、また困難な中で生活している方々に必要なすべてがもたらされることを祈ります。
 ことに長期化している断水によって生じている生活の困難さは、想像もつきません。厚生労働省によると一日一人あたりの家庭での生活用水はおよそ二三〇リットルだそうです。水はいのちを支え、また清潔を保ちます。医療措置にも水は必要です。非常時の節水だけでも厳しい状況であるにもかかわらず、それを一ヶ月以上もの間、自力で毎日運んだり、また確保のために奔走しなければならなかったりする体力と気力の維持は、極めて困難なことです。
 パレスチナのガザでも以前から清潔な水の不足が大きな課題になっていましたが、イスラエルの攻撃が続く中でそれはますます深刻になっています。生活のための水がないという状況は、当然ですがいのちの危険につながります。
 「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ四:一五b)と、どれほどの人々が世界中で今も叫んでいることでしょうか。叫び求める方々に、キリストが生きるための水と永遠のいのちに至る水とを届けようとしてくださっています。わたしたちもキリストのそのお働きに加えていただきたいと切に願います。


主教 マリア・グレイス 笹森田鶴

2024年1月

 一月一日朝、東京教区退職司祭マリア山野繁子師が、八一年のこの世でのご
生涯を終えて神様のみ許に召されました。言葉にならないどうしようもない淋しさと、同時代を同伴してくださったことへの深い感謝の念で心が一杯になり、日を追うごとにその存在の大きさを感じています。お会いしたことのない方にとっても、昨年の教区聖歌四八七番「重荷背負う人に」の作詞で馴染みがあることでしょう。
 山野繁子司祭とわたしは三五年程前からのお交わりです。すでに日本聖公会のみならずアジアのキリスト教界で活躍されていた山野先生にお会いでき、誠実な、そして知的で静かなそのご様子に感激したものでした。まだ女性の司祭志願が叶わなかった時代、わたしは「生涯待てる」と思い志願を決意し、二〇歳ほど年上の山野先生は「今、志願しないと」と思われ、不思議なことにそれぞれ同じ時期に聖職志願をすることとなります。その後痛みと悲しみ、また祈り支えられている喜びをともにし、執事按手をともに受け、法憲法規の司祭志願の要件から性別条項が削除される一九九八年の日本聖公会総会をともに傍聴し、聖職試験をともに受験し、二五年前の一月六日顕現日にともに竹田眞主教より東京教区で初めての女性としての司祭按手に与りました。その後の牧会生活においても、山野繁子司祭が常に同じ教区にいてくださったことは、わたしにとって大きな支えであり、励ましであり、学びでありました。一人では到底
乗り越えられなかった道程に尊敬する同伴者が与えられていたことは、神様からの大きな贈り物以外何ものでもありませんでした。
 山野先生、ご一緒できて本当に光栄でした。またお会いする日まで精一杯務めます。主に抱かれて安らかに憩われますように。


主教 マリア・グレイス 笹森 田鶴