2017年9月

 私には36歳になる息子がいます。彼が丁度高校に入学する時、私たちは札幌に引っ越してきました。彼の高校また大学時代は、私は息子となかなか良い関係を築くことができず、深い葛藤の中で過ごしました。それは彼にとっても同じであったと思います。幼児洗礼を受けていた彼は、堅信式は受けないと言って、教会の礼拝に出ることもありませんでした。そして大学を終え、スイスで時計職人になりたいという夢を持って、そのためのフランス語の勉強をすべく、今から11年前にフランスに渡りました。
 彼がフランス行きの準備をしていた時、私の父から突然彼宛に速達が届きました。彼が開封した後、私はこっそりその手紙を読みました。
 「フランシス純君へ。貴兄のフランス行きがいよいよ具体化し、さらには旅程の細部に至るまでの段取りもすべて自分で調(ととの)えられたことを知り、心から嬉しく喜んでおります。いよいよ出発ですね。まずは一番大切なパスポートをイエス様にお願い致しましょう。『フランシス植松純(同行者インマヌエル・イエス)』。ああ、この手形があれば万事心配無用。手続きは堅信式と陪餐。ミサに陪(あずか)り『同行者インマヌエル・イエス』の手形をものにし、さあ、これで準備完了。出発。どこで何を学ぼうと、『同行二人』の研鑽は豊かに成長し、確実に実を結びます。なお、このパスポートは世界中のあらゆる教会・集会・人々に通用します。祖父アブラハム」
 彼は、これを読み、当時札幌キリスト教会牧師であった大友司祭に、堅信式を受けたいと申し出たのでした。
 それから11年、時計職人となった彼は、素晴らしい伴侶を与えられ、今月、スイスで結婚式を挙げることになり、私にその司式をしてほしいと頼んできました。「同行者インマヌエル・イエス」のパスポートは、今も彼と共にあります。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年8月

 朝日新聞の「声」の欄に、沖縄出身の大学生(福岡在住)の思いが載りました。彼女の地元沖縄では「ぬちぐすい」という言葉があること。「ぬち」は命、「ぐすい」は薬の意味で、食べものや景色、音楽、言葉など、食したり触れたりしたときに、心を癒して気持ちを元気にしてくれるものに対して使う言葉なのだそうです。この大学生は地元を離れ、念願の一人暮らしを始め、これまた楽しみであった料理にも精を出したそうですが、独りの食事のあまりの味気なさに、家族や友だちとおいしさを分かち合い、顔を見合わせながら食べることが何よりの「ぬちぐすい」だと気付いたとのことでした。
 これを読みながら、「ぬちぐすい」・・・、この言葉は、私たちが大切にしている聖餐式そのものだと思いました。信徒も聖職もそれぞれ過ごした日々を背負ってみ前に集い、祈り、懺悔し、主の食卓を囲み、ご聖体をいただきます。1週間、あるいは1ヶ月、みんないろいろ大変でしたね・・・と、お互いに言葉に出さなくても労(ねぎら)い合い、無事を感謝し、新しく始まる日々にみ守りと祝福を祈る、そのひととき。ともにいただくキリストの御体と御血によって養われた私たちは、改めて重荷を背負う力を与えられ、歩き出します。どんなに辛い道であっても、そう、またあの究極の「ぬちぐすい」に養われるのだと励ましながら。
 この投書の最後はこういう言葉で締めくくられていました。「あなたの“ぬちぐすい”はなんですか」と。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年7月

 私が北海道教区の主教に就任したときには、まだ幼い子どもであった人が、今や立派な社会人。20年の歳月の長さをつくづく感じます。そのような信徒からの手紙を今日は紹介したいと思います。彼女が「奇跡」と呼ぶ出来事を。
 彼女(Iさん)は今年2月、休暇を取って北欧に独り旅をしました。自由気ままに各地を巡り歩き、バルト三国のエストニアの首都タリンに着きました。ここからは、Iさんのお手紙を引用します。
 ホテルで朝起きて朝食をとり、観光スタート。いつものようにカメラ片手に旧市街地巡り。鐘がゴォーン、ゴォーンと鳴り響き、足が勝手にその音の聞こえる方に。教会・・・。なんと今日は日曜日。礼拝の日でした。
 「あー、私は今、おじいちゃんに守られている」。忘れていた教会のことを思い出しました。小さい頃から手を引っぱられて、日曜日はいつも教会に行っていたこと。鐘の音とともに礼拝が始まり、その時間は子どもにとっては長くて長くて・・・、早く礼拝が終わらないかとばかり考えていました。でも、その時はいつも横にはおじいちゃんが居てくれた。それが普通でした。
 この日、タリンの中世からの古い教会での礼拝、それは久しぶりにおじいちゃんとの再会の時でもありました。おじいちゃんと一緒に礼拝ができたことで、私は幸せで幸せで、この日の出来事は私の一生の宝物になりました。本当に奇跡の一日でした。それをお伝えしたくて、主教さんにこの手街を書きました。(以上、引用終わり)
 Iさんのおじい様は4年前に天に召されました。熱心な信徒でした。Iさんのお手紙を読みながら、おじい様が今も天国で祈っていてくださること、そしてIさんの傍らに今も一緒にいらっしゃることを思いました。Iさん、ありがとう!
 そしてこの奇跡のゆえに主に感謝。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年6月

全く知りませんでした・・・。きっと私や妻にわからないように苦労して準備してくださったのでしょう。教区礼拝の最後、祭壇のろうそくが消えてから、恒例となったハレルヤコーラスを歌うため、私たち教役者も礼拝堂に戻りました。そのとき、私は会衆の前に出るように言われ、妻も呼ばれました。予め配られていたらしい印刷物を見ながら、聖歌476番「暗闇行く時には」が全員で歌われました。この聖歌には私にとっての特別な思いがあることを巡回先での説教でもお話したことがあり、多くの方がそのことをご存知でした。一緒に歌いながら、皆さんが私の主教按手20周年を記念して祝ってくださっていることがわかり、いろいろな思いやたくさんの方々の顔が走馬灯のように浮かび、胸が熱くなり、涙があふれました。
 この20年間、私にとってはやはり重責ではあったものの、聖職信徒の方々とともに喜んだり、悲しんだり、笑ったり、泣いたり・・・、一人ひとりの信仰の旅路に添わせていただいたこと、それは計り知れないお恵みだったと改めて思います。私の後ろには、20年よりも遥かに長く、深く、この北海道教区のために働いてこられた聖職信徒の方々のお祈りとお支えがあり、そのまた後ろには天に召された方々、そして、いつもしんがりを守り、押し出してくださった神様の大きなみ手を感じるのです。
 配られた印刷物には、こんなことが書かれていました。「3番を歌い終えたら、子どもが主教様に花束を渡します。その時全員で『主教様、主教按手20周年おめでとうございます!』と大きな声で言います!」。本当に北海道らしい、優しさと温かさ、そして愛に満ちたお祝いに、胸がいっぱいになった教区礼拝でした。
 皆さまに感謝! そして主に感謝!

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年5月

 先日教区で発行されたポスター「わたしたちの教会の夢」。一つひとつじっくり、それぞれの教会の「夢」を読んでいますと、23の教会それぞれの牧師・信徒のお顔が浮かびます。「夢」ですから、必ずしも実現できるとは言えないでしょう。でもそれら一つひとつの言葉には決して綺麗事では終わらない、何か本当に決意のようなものを感じます。定住牧師のいない教会、信徒が数人の教会もあります。数人であっても何十人であっても、その内の一人が、この夢のために1日にたった10分でも早起きして祈るならば、そしてそれを自分の使命とするならば、そこに聖霊の働きが注がれないはずはありません。
 夢を実現させるためにはまず1歩踏み出さなければならないでしょう。「祈り合う教会」が夢であるならば、まず自分自身が誰かのために全身全霊で祈ること。それは夢に向かって進むために与えられる私たちの使命でもあります。祈りによって、主のみ名を唱えて、神さまからの大いなる力を信じて・・・。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」コリントⅡ4:18
 自分たちの教会の夢だけではなく、同じ分区の教会の夢のためにも1歩踏み出すことができるでしょうか。遠い教会であっても、もし知り合いがいる教会であれば、そのためにも心を砕いて祈ることができるでしょうか。私は、このポスターに書かれた夢のような「夢」が、私たち一人ひとりの祈りによって実現されていく様を想像し、わくわくするのです。北海道という一つの大地。そこに立つ23の教会。その信徒一人ひとりに与えられた大きな使命が、永遠に存続する、見えない力を生み出す原動力になると思うのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年4月

 私の父が3月7日、100歳3か月で、天に召されました。私はその前日から京都での諸宗教の集まりのために大阪に行っていましたので、亡くなる前の晩もその日の朝も、父に会い、そこで家族一緒に祈り、父への最後の祝福を祈ることもできました。静かで穏やかな最期でした。
 今から8年ほど前、両親を訪ねた時、父が私に渡すものがあるということで、父の前に正座しました。父は机の引き出しの奥から、何やら小さなものを取り出して私の手にそれを載せました。手のひらで包んでしまえるほど小さな小さな本でした。「なに、これ?」と聞く私に、「兵隊に行った時に持っていった祈祷書だ」と。硬い表紙のミニ本は英語の祈祷書でした。水に濡れ、インクの染みがあります。父は1939(昭和14)年、神学校を卒業したあと、北京中華聖公会に赴任し、その後徴兵され、中国戦線に。終戦まで何度か応召しました。
 戦地に持っていけるのは背嚢に入るものだけ。私物は限られているし、厳しい検閲があります。この祈祷書が、しかも英語のものが、どうして検閲をとおったのか不思議ですが、(たぶん、日本語の祈祷書は大きすぎたのでしょう)、この本の表紙裏に、検閲官の許可印が押してあります。特別な計らいだったと思われます。この祈祷書を用いて、父は、戦地で早祷、晩祷を捧げていたのでしょう。戦後、父の戦友が我が家を訪ねてきた時、私たち兄弟に、「あなたたちのお父さんはキリスト教だったから、毎晩のように上官から制裁をくっていた」と話したことがあります。そのような中でも、決して身から離さなかった祈祷書だったのでしょう。
 父から私に渡されたミニ祈祷書。信仰は命に勝るものだという遺言がそこにあるように思います。 

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年3月

 本州に住んでいた時、この時期になると決まって花粉症で苦しみました。目の痒み、鼻づまり、鼻水、くしゃみの連発、時には微熱も出る始末。肌身離さず持っていたのはアレルギー性鼻炎のためのスプレー。春たけなわになると、テレビではニホンザルまでが花粉症になったというニュースが流れ、赤い顔のニホンザルがそれ以上に真っ赤な涙目をして、なんとも哀れな顔で鼻水を流しているのを、我が身に合わせて可哀想に思ったものでした。
 アレルギーというのは本当にやっかいなものです。薬を飲めば眠くなり、何とも言えない倦怠感。聖餐式の説教中であろうと、聖別中であろうと所構わず出るくしゃみ・・・。北海道に来てからそれらがほとんど出なくなり、本当にありがたいことでした。スギ花粉がないからでしょうか。
 アレルギーに関して、「回虫が消えたからアレルギー性疾患が増えた」という、おもしろい一説があります。有史以前から人と共生してきた回虫は人に悪さをするのではなく、自分が生きるために栄養を少し横取りさせてもらう人には元気でいてもらわないといけないので、アレルギーにも癌にもなりにくい体に変化させる・・・というものです。その真偽の程はわかりませんが、確かに私たち人間は自分にとって都合の悪そうに見えるものをことごとく排除してきました。それは現代も益々バージョンアップして続いていると思います。排泄物、匂い、虫・・・。それら、不快とするものをすべて排除してきたが故に、もしかしたら人間の体自体が大切なものを受け入れられなくなってきた・・・と、そのようにも思います。今更回虫と共存というわけにもいきませんが、神様がお創りなったものすべて、そして何よりも、この世の人すべてがお互いに大切な存在として排除しない世の中になって欲しいと願います。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年2月

 先日、姉の嫁ぎ先の父が亡くなり、葬儀のため兵庫県の芦屋まで行ってきました。その教会は私が執事として初めて遣わされ、3年半を過ごした懐かしいところでした。召されたHさんは95歳。ご夫妻で私が赴任した時からずっと親のように私と家族の面倒をみてくださった方でした。葬送式の説教は、私がその教会にいた時の主任牧師。もう89才になられる司祭で、説教壇に上がられると、昔と変わらないお声で話され、懐かしさで胸がいっぱいになりました。
 「わたしは 福音を恥としない」(ローマ1:16)というパウロの言葉を紹介し、「Hさんの生きざまは、正に、福音を恥としない・・・そのみ言葉に尽きる」と。本当にそうだったと思い返しました。福音を恥としない生き方・・・、それゆえに厳しいことをおっしゃることもありましたが、いつもその根底にあるのは「慈愛」だったと改めて思います。
 葬儀は、別れの悲しみはあるものの、親しかった人々との再会の喜びの場ともなります。今回は普段滅多に会えない親戚たちにも会う機会となりました。私がその教会を出てから30年。若い私を支え育ててくださった信徒の方々の多くが亡くなられましたが、それでも、何年ぶり、何十年ぶりかで会う方々との再会は温かく、楽しいものでした。私たちの国籍は天にある・・・。葬儀に関わるといつもそう思います。それゆえに、私たちはどんな状況になっても希望を失わず、おののきつつ喜び躍るものとなりたい。願わくば、福音を恥としない生き方・・・、その生き方に徹すること、それ以上に、福音の恥とならないようにと、冷たい神戸の雪に降られながら思いました。献花の時の「ハレルヤ、主に感謝します」という夫人の声が今も耳に残っています。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年1月

 新年おめでとうございます。今年は元旦がちょうど主日でしたから、教会に初詣でして礼拝に与かり一年が始まったのではないでしょうか。しかもその元旦は「主イエス命名の日」であり、イエス(神は救い)とインマヌエル(神、我らと共にいます)という名をしっかりと心にとめて私たちは歩み出しました。
 昔、私が幼いころから大人になるまで、父は私たち兄弟が何か特別な用事で出かけるとき(遠足、キャンプ、修学旅行など)、決まって私たちに玄関先で手を按(お)いて祝福の祈りをしたものです。ある時期、それが素直に受け入れられずに、黙ってそっと裏口から出て行ったこともありました。私が司祭、主教になっても、海外に出るときなど、空港から両親宅に電話をすると、父は電話口で祝祷をしてくれたものです。 だんだん父も年をとり、「父と子と聖霊の・・・」というような祝祷はできなくなりましたが、それでも、「イエスさまが一緒だよ、一緒だからね」などという言葉での祝福は続き、それもできなくなると、私の手をとって、ただ、にこーっと微笑むかたちの「祝福」に変わりました。昨年12月、百歳になった父は、もう私のことも分からないようで、そのような祝福さえも無理になりました。老人ホームのショートステイに入っていた父を、昨年訪ねる機会がありました。黙って座っている父の手を私も黙って20分くらい握っていましたが、最後に、父の頭に私は手を按いて、祝祷を唱えました。「パパ、インマヌエルだよ、イエスさまが一緒だよ」と。

主教 ナタナエル 植松 誠