2017年4月

 私の父が3月7日、100歳3か月で、天に召されました。私はその前日から京都での諸宗教の集まりのために大阪に行っていましたので、亡くなる前の晩もその日の朝も、父に会い、そこで家族一緒に祈り、父への最後の祝福を祈ることもできました。静かで穏やかな最期でした。
 今から8年ほど前、両親を訪ねた時、父が私に渡すものがあるということで、父の前に正座しました。父は机の引き出しの奥から、何やら小さなものを取り出して私の手にそれを載せました。手のひらで包んでしまえるほど小さな小さな本でした。「なに、これ?」と聞く私に、「兵隊に行った時に持っていった祈祷書だ」と。硬い表紙のミニ本は英語の祈祷書でした。水に濡れ、インクの染みがあります。父は1939(昭和14)年、神学校を卒業したあと、北京中華聖公会に赴任し、その後徴兵され、中国戦線に。終戦まで何度か応召しました。
 戦地に持っていけるのは背嚢に入るものだけ。私物は限られているし、厳しい検閲があります。この祈祷書が、しかも英語のものが、どうして検閲をとおったのか不思議ですが、(たぶん、日本語の祈祷書は大きすぎたのでしょう)、この本の表紙裏に、検閲官の許可印が押してあります。特別な計らいだったと思われます。この祈祷書を用いて、父は、戦地で早祷、晩祷を捧げていたのでしょう。戦後、父の戦友が我が家を訪ねてきた時、私たち兄弟に、「あなたたちのお父さんはキリスト教だったから、毎晩のように上官から制裁をくっていた」と話したことがあります。そのような中でも、決して身から離さなかった祈祷書だったのでしょう。
 父から私に渡されたミニ祈祷書。信仰は命に勝るものだという遺言がそこにあるように思います。 

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年3月

 本州に住んでいた時、この時期になると決まって花粉症で苦しみました。目の痒み、鼻づまり、鼻水、くしゃみの連発、時には微熱も出る始末。肌身離さず持っていたのはアレルギー性鼻炎のためのスプレー。春たけなわになると、テレビではニホンザルまでが花粉症になったというニュースが流れ、赤い顔のニホンザルがそれ以上に真っ赤な涙目をして、なんとも哀れな顔で鼻水を流しているのを、我が身に合わせて可哀想に思ったものでした。
 アレルギーというのは本当にやっかいなものです。薬を飲めば眠くなり、何とも言えない倦怠感。聖餐式の説教中であろうと、聖別中であろうと所構わず出るくしゃみ・・・。北海道に来てからそれらがほとんど出なくなり、本当にありがたいことでした。スギ花粉がないからでしょうか。
 アレルギーに関して、「回虫が消えたからアレルギー性疾患が増えた」という、おもしろい一説があります。有史以前から人と共生してきた回虫は人に悪さをするのではなく、自分が生きるために栄養を少し横取りさせてもらう人には元気でいてもらわないといけないので、アレルギーにも癌にもなりにくい体に変化させる・・・というものです。その真偽の程はわかりませんが、確かに私たち人間は自分にとって都合の悪そうに見えるものをことごとく排除してきました。それは現代も益々バージョンアップして続いていると思います。排泄物、匂い、虫・・・。それら、不快とするものをすべて排除してきたが故に、もしかしたら人間の体自体が大切なものを受け入れられなくなってきた・・・と、そのようにも思います。今更回虫と共存というわけにもいきませんが、神様がお創りなったものすべて、そして何よりも、この世の人すべてがお互いに大切な存在として排除しない世の中になって欲しいと願います。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年2月

 先日、姉の嫁ぎ先の父が亡くなり、葬儀のため兵庫県の芦屋まで行ってきました。その教会は私が執事として初めて遣わされ、3年半を過ごした懐かしいところでした。召されたHさんは95歳。ご夫妻で私が赴任した時からずっと親のように私と家族の面倒をみてくださった方でした。葬送式の説教は、私がその教会にいた時の主任牧師。もう89才になられる司祭で、説教壇に上がられると、昔と変わらないお声で話され、懐かしさで胸がいっぱいになりました。
 「わたしは 福音を恥としない」(ローマ1:16)というパウロの言葉を紹介し、「Hさんの生きざまは、正に、福音を恥としない・・・そのみ言葉に尽きる」と。本当にそうだったと思い返しました。福音を恥としない生き方・・・、それゆえに厳しいことをおっしゃることもありましたが、いつもその根底にあるのは「慈愛」だったと改めて思います。
 葬儀は、別れの悲しみはあるものの、親しかった人々との再会の喜びの場ともなります。今回は普段滅多に会えない親戚たちにも会う機会となりました。私がその教会を出てから30年。若い私を支え育ててくださった信徒の方々の多くが亡くなられましたが、それでも、何年ぶり、何十年ぶりかで会う方々との再会は温かく、楽しいものでした。私たちの国籍は天にある・・・。葬儀に関わるといつもそう思います。それゆえに、私たちはどんな状況になっても希望を失わず、おののきつつ喜び躍るものとなりたい。願わくば、福音を恥としない生き方・・・、その生き方に徹すること、それ以上に、福音の恥とならないようにと、冷たい神戸の雪に降られながら思いました。献花の時の「ハレルヤ、主に感謝します」という夫人の声が今も耳に残っています。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年1月

 新年おめでとうございます。今年は元旦がちょうど主日でしたから、教会に初詣でして礼拝に与かり一年が始まったのではないでしょうか。しかもその元旦は「主イエス命名の日」であり、イエス(神は救い)とインマヌエル(神、我らと共にいます)という名をしっかりと心にとめて私たちは歩み出しました。
 昔、私が幼いころから大人になるまで、父は私たち兄弟が何か特別な用事で出かけるとき(遠足、キャンプ、修学旅行など)、決まって私たちに玄関先で手を按(お)いて祝福の祈りをしたものです。ある時期、それが素直に受け入れられずに、黙ってそっと裏口から出て行ったこともありました。私が司祭、主教になっても、海外に出るときなど、空港から両親宅に電話をすると、父は電話口で祝祷をしてくれたものです。 だんだん父も年をとり、「父と子と聖霊の・・・」というような祝祷はできなくなりましたが、それでも、「イエスさまが一緒だよ、一緒だからね」などという言葉での祝福は続き、それもできなくなると、私の手をとって、ただ、にこーっと微笑むかたちの「祝福」に変わりました。昨年12月、百歳になった父は、もう私のことも分からないようで、そのような祝福さえも無理になりました。老人ホームのショートステイに入っていた父を、昨年訪ねる機会がありました。黙って座っている父の手を私も黙って20分くらい握っていましたが、最後に、父の頭に私は手を按いて、祝祷を唱えました。「パパ、インマヌエルだよ、イエスさまが一緒だよ」と。

主教 ナタナエル 植松 誠