2012年12月

北海道教区第71(定期)教区会主教告辞

主教 ナタナエル 植松 誠

[教区会開催にあたって]

 北海道教区第七一(定期)教区会のために各教会からご出席くださいました聖職議員、信徒代議員、教区役員、招待議員、またこの教区会のためにご奉仕くださいます皆様に深く感謝いたします。この十一月に入って、わずか十日間のうちに私は稚内、厚岸、函館を巡回しましたが、その総走行距離は二三〇〇キロにも及びました。そのような広い教区では、人々が集まるということ自体、大変な労力、時間、経費を要することです。今回教区会のために皆様が集まってくださったということ、私はその思いや苦労、犠牲をそのまま神様への捧げものにしたいと思います。神様がそれらをお受けくださって、この教区会を豊かに祝福してくださいますように、そして、この教区会を通して、イエス・キリストを主と信ずる北海道教区の家族の絆がますます強められ、共に担う宣教への新たな力と希望が与えられますようにと祈ります。

[人事]

 人事について申し上げます。今年五月の教区礼拝において内海信武執事が司祭に叙任されました。退職後も嘱託聖職として、大友正幸司祭が小樽で、藤井八郎司祭が函館と今金でお働きいただいております。雨宮大朔司祭には今年三月末で定年となられた後も、網走、北見、紋別で教会、また幼稚園のお働きをしていただいております。これらの嘱託聖職の方々に深く感謝いたします。また、他にも退職聖職が教区内のいくつもの教会で、主日礼拝のご奉仕をしてくださっていることも合わせてご報告して、感謝いたします。塩谷常吉司祭は、来年三月末で定年となられます。今まで長きにわたり、特任聖職としてご病気と闘いながら、聖マーガレット教会で誠実にお務めくださいましたことを、この教区会の場を借りて、ここにいらっしゃる皆様とともに、深く感謝するものであります。
 直接、教区の人事ではありませんが、札幌キリスト教会信徒でありました工藤マナさんが、今年六月、ナザレ修女会において修練女となられたことは私たち北海道教区として大きな喜びであります。マナ修練女のこれからの修道生活を通して、私たちも神様からのお恵みをいただけることと信じます。
 北海道教区では、今後ますます教役者が足りなくなります。そして、少ない教役者で広大な教区を牧会・宣教するのは一層困難となることは明らかです。聖職への献身者が興されますように、皆様の篤い祈りをお願いするとともに、そのような人を探し、育て、聖職になるようにお勧めいただきますようお願いいたします。

[東日本大震災と北海道教区]

 昨年三月十一日に起きた東日本大震災から一年と八か月余が経ちました。北海道教区は大震災発生直後から、支援室を設置して、東北教区や日本聖公会全体の「いっしょに歩こう! プロジェクト」と協働しながら被災者支援を続けてきました。特に、岩手県釜石市では、釜石神愛教会及び釜石神愛幼児学園(保育所)と連帯しながら、市内に設置された被災者支援センターでの活動を継続してきました。教区からは定期的に教役者を送り込み、またボランティアとして多くの方々が現地まで行ってくださいました。また支援物資の調達や送付、そして支援活動に必要な経費を賄うために献金を多くの教会でしてくださったことを感謝いたします。そして、被災者のため、支援にあたる人々のために祈り続けてくださっていることも感謝いたします。
「いっしょに歩こう! プロジェクト」は、もちろん被災者支援活動ではありますが、その中で私たちの教会の宣教についても考えさせられてきました。仮設住宅訪問でも、支援センターを訪ねて来られる方々への対応でも、まずそっと寄り添うこと、しっかり傾聴すること、心地よい居場所を提供すること、あなたがいてくれて、生きていてくれて私は嬉しいというメッセージを繰り返し発信すること。これら被災地での被災者との関わりは、まさに私たちのそれぞれの教会でも最も大切にされなければならないことではないかと報告会で語っておられた釜石支援センター責任者の海老原祐治さんの言葉がとても印象的でした。
 震災からの復興はどの被災地でもなかなか進んでいません。日本聖公会の「いっしょに歩こう! プロジェクト」は一応来年五月でその働きを終了することになっています。釜石の被災者支援センターについても、今後どのような形で終えることが良いのかの検討が始まっています。北海道教区としては、それがどのような結果となっても、そのために必要とされることを最後まで続けたいと思います。
東日本大震災に関連して、原子力発電所の問題にも触れておきたいと思います。東日本大震災は、東京電力福島第一原子力発電所にも大きな被害を与えました。その結果、原子炉はメルトダウン(溶解)を起こし、爆発によって大量の放射性物質を周辺地域のみならず、広範囲にわたってまき散らしました。原発事故は生きとし生けるすべての生命を脅かしています。これまで私たちは原子力発電の安全神話を信じ込み、原発によって供給される電力を消費することで、「快適で文化的」な生活を享受してきました。しかし、今回の福島第一原発事故は、これまでの安全神話を粉々に打ち砕きました。
 今年五月に開かれた日本聖公会総会では、「原発のない世界を求めて−原子力発電に対する日本聖公会の立場−」という声明を採択しました。原子力発電自体が持っている問題、また事故を起こした際の収拾不能事態、さらに使用済み核燃料の処理方法の無さなどに関してはここではこれ以上お話しできませんが、そのいずれも、今、現在、福島で起きていること、即ち、人の生命を脅かし、家族の絆を、社会の絆を分断し、生活を破壊し、これから生まれてくる生命をも危険に晒し、人々から希望や夢を奪ってしまうものであるということを私たちはしっかりと認識することが必要です。北海道には泊原発があり、函館の対岸の大間では原発が建設中であり、また使用済み核燃料の最終処分地として候補に上がっているところもあります。日本聖公会総会で「原発のない世界を求めて」という声明が採択されたことは、私たちの教会がそこを私たちの視座として、原発問題に関わっていくことが求められています。

[宣教協議会] 

 さる九月一四日~一七日、静岡県浜名湖畔カリアックにおいて、日本聖公会宣教協議会が開かれました。この協議会は二〇〇八年の日本聖公会第五七(定期)総会で開催が決議されたもので、今回の宣教協議会に先立って二〇一〇年八月には、プレ宣教協議会が開かれています。日本聖公会は二〇〇九年、宣教一五〇周年を迎えましたが、教会の現状は信徒の減少と高齢化、聖職者の不足、教会建物の老朽化、財政の逼迫などの課題に直面しています。ここから日本聖公会はどのような展望をもって、将来にわたる宣教をしていくのかということが、これらプレ宣教協議会及び宣教協議会のテーマでした。今回の宣教協議会には全教区から主教をはじめ教区代表など約一四〇名もの聖職・信徒が集まり、聖公会という教会がどのような教会であり、どのような宣教をしてきたかについて講演を聞いて学び、その後、全参加者がグループに分かれて、長時間にわたり、それぞれの立場から、熱心な議論が行われました。その結果がまとめられて「日本聖公会(宣教・牧会の十年)提言」として出されました。これからの日本聖公会のあゆみ十年間の指針となるべきものですが、その内容は多岐にわたっています。既に各教会に送られていますので、お読みいただいた方もあると思いますが、私たち北海道教区としては、この提言を私たちの言葉に再翻訳していく必要があると思います。大きな協議会の性格上、そこで出された提言は、全体を集約したもので、それぞれの提言が、北海道教区にあってはどのように解釈して、どのように取り組みえるのかという検証は必要です。
 提言をお読みいただければお分かりのように、今回の宣教協議会では、何か大きなアクションを起こすことや大きな目標、例えば信徒倍増とか献金倍増などを提言するということにはなりませんでした。先程挙げたような信徒減少、聖職者不足、財政の困窮などの教会の現状をどのようにしたら打破できるのか。今回の宣教協議会には、日本聖公会全体として集まる協議会なのだから、何か効果のある宣教の方策をきちんと打ち出してほしいという期待が寄せられていました。そのような期待に対しては、今回の提言は、特効薬はないとはっきり断言しているように思います。教会の現状、それは私たちの今までの地道な福音宣教が間違っていたとか、無駄だったというのではないはずです。日本という宣教の困難な国で一%ものクリスチャンがいることを私は今、神様からの祝福、奇跡だと思い始めています。社会の波にもまれ、社会の急激な価値観の変化の中で、私たちの教会が今も在り続けること、それは決して十分とは言えませんが、私たちの先輩たちが、そして私たちが福音を伝え、それを主が祝福してくださったからではないでしょうか。
 今回の宣教協議会の提言は、「何を今さら・・・」と思えるくらい、何か目新しいことが宣教の方策として出されているようには見えません。提言が言っているのは、宣教とは何か特別なことではなく、とても地味で、静かで、ゆっくりで、時には当たり前でそれが宣教であるなどとは意識されることもない、そのようなことなのだと思います。ただし、私たちの宣教は、私たちの日々の信仰の中から行われるものですから、私たちの信仰を、また私たち教会の共同体としての信仰を、時々立ち止まって、「これでいいのだろうか」と吟味することが大切です。その意味で、今回の提言は、教区として、教会として、また個人として、自分の、また、自分たちの信仰の歩みの中で、私たちがどのように宣教をしているかを見直すためのガイドになり得るものだと私は思っています。

[教区関連諸施設に関する将来展望]

 昨年の教区会で「教区関連諸施設に関する将来展望検討委員会」の設置が決議され、同委員会からの教区主教宛の答申が出されています。私たちの教区には学校法人として五つの幼稚園が、また社会福祉法人として四つの保育園があります。これらは教会の宣教の一環として始められ、これまで、時代の変遷の中、また社会の様々な状況の変化の中で、関係者による熱心な保育の事業が行われてきました。しかし、母体である教区・教会の状況も大きく変わりました。教区や教会が、これらの事業をどのように考え、どのように主体的に関わるべきかを、今私たちは改めて考え直すことが必要だと思います。今回この委員会から出された答申は、現在の状況から将来展望にわたって、いくつもの課題を提起しています。その中にはとても厳しい指摘もあります。神様から託された私たちの教区・教会の幼稚園・保育園に対して、私たちが責任をもって応え、関わっていくために、この答申を真摯に受け止め、今後に向かって為すべきことを果たしていけるよう、新年度の教区体制の中で考えたいと思います。

[終わりに]

 もう一度、宣教について申し上げます。宣教とは、キリストの福音を証しすること。そして、人々をキリストの愛と交わりにお招きすること、それに尽きると思います。自分の言葉で、自分の生き方で、生きざまでキリストを証しすることです。人の言葉ではなく自分の言葉で、御言葉を、イエス様の私への愛を、私への慈しみを、自分にとっての喜びを、希望を語ることです。ここ数年間、私は信徒が宣教・牧会の主役だと言ってまいりました。一人ひとり異なった環境や背景の中で、その人にしかない信仰生活があります。それは、まさに神様によって召されたその人の宣教現場です。その人にしかない、神様から与えられた生き方の中から語られる証しがあるはずです。日本において、クリスチャン人口は1%に満たないと言われています。しかし、「私は神様によって選ばれた一%なのだ」とは何という特権であり、祝福でしょう。そこから私たちの宣教が始まるのではないでしょうか。

 新たな教区会期であるこれからの一年も、主の豊かなお導きと祝福が北海道教区の上に、また皆様の上にありますように。

2012年11月

 最近、ひそかに応援していることがあります。旭山動物園を逃げ出したフラミンゴです。捕獲するのに大変な思いをし、憔悴しきっている関係者の方々には甚だ申し訳ないのですが、よしっ、逃げるんだっ!・・と、そのような思いでニュースを見ていました。それでも、そのうち力尽き果てて捕獲されるのでは、と心配したり、もうそろそろ動物園に帰って、お腹一杯餌を食べたほうがいいのでは・・・と思ったり。
 でも当の本人(本鳥)は自由に羽ばたいて未知の湖に飛び、フラミンゴにとっては見知らぬ別の鳥と即つかず離れずの穏やかな生活。それを見ているうちに、そのフラミンゴが確かに何かの束縛から解き放たれ、自由を満喫しているように見えてきました。動物園での単調な生活の中で、羽が生えてくるのを待っていたのでしょうか。空を飛ぶという憧れが抑えきれなくなったのでしょうか。そんなたわいもないことを考えながら、言葉がわかれば、あのフラミンゴと話してみたいという気持ちになります。
 羽ばたく・・・。それは人間にとっても永遠の憧れです。自由に、気ままに、勇敢に、何もかもかなぐり捨て、大空に向かって・・。現実の生活ではなかなか望めないことです。でも、少し見方を変えてみると、私たちはすでに「罪の鎖」というものからは解き放たれているのです。この世でのいのちがなくなったとしても、私たちには魂の翼が与えられています。いつの日か、天の御国に向って自由に羽ばたくのです。
 今また行方不明のフラミンゴです。天の御国に羽ばくその日まで、私も翼の手入れです。
 (十一月一日)

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年10月

 私たちにはみさという娘がいます。みさが小さい時、幼稚園で、父の日に私の絵を描いて、プレゼントしてくれました。およそ上手とは言えない絵の横に、何とか判読できる字で、お父さん、いつも牧師さんのお仕事をして、お金をたくさん稼いでくれてありがとうとありました。びっくり仰天した私はみさに訊ねました。どうやってお父さんはお金を稼いでいるの? 娘は何のためらいもなく答えました。「献金で!」。毎主日の聖餐式で、奉献として捧げられるお盆に載った献金が、全部私の懐に入ると思っていたのです。「とんでもない。みさ、あれは神様にお捧げするお金で・・・」などと娘に対して慌てて説明したのですが、教会の仕組みは彼女にはよくわからなかったようでした。
 みさが小学一年生の頃、海外出張から戻った私を空港まで迎えに来て、小さな封筒を私に手渡しました。開けてみると、「みさちゃんの歯」と書かれた紙片とティッシュに包んだ乳歯が入っていました。抜けた歯は、彼女の大切な宝物だったのでしょう。お父さんへのそのプレゼントは、今も私の机の中に大事にしまってあります。
 マリヤみさ。女の子が生まれたらそう名付けようと前から決めていました。聖母マリヤは私が憧れるお方。「みさ」はラテン語で聖餐式のこと。主イエス様のご臨在を確信し、主と一つにされる聖餐式は、私の生きる拠り所。それが娘の名前でした。
 二十八年間、いつも私の憧れと拠り所であり、笑いと涙を共にしてきた娘、マリヤみさは、この九月、嫁いでいきました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年9月

 愛は「死んでもいいということ」これはカトリック教会の森一弘司教が書かれた本(女子パウロ会)のタイトル。この本を読みながら、かなり昔にあったことを思い出しました。
 私の息子が小学校の一年か二年生のころ、何か気にいらないことがあったのでしょう。家内の頬を平手で叩きました。パチンという乾いた音に私は振り向きました。家内は何も言わず、堪えています。息子は自分の手に残る痛みと、母親の顔の表情に、少し呆然としているようでした。
 しばらくの沈黙が流れ、気がついた時には、私は息子の後ろ襟をつかんで、牧師館の二階への階段を上がっていました。「座りなさい」。ハァハァと乱れる息を整えながら自分自身の気の高まりも必死に抑えました。何が起こるのかわからず不安そうな顔でそこに座った息子に私は言いました。「お前は今お母さんを叩いた。ひとつお前に言っておくことがある。お母さんは、お父さんにとってとても大事な人だ。お父さんはお母さんを愛していて、お母さんのためなら自分のいのちを捧げたっていいと思っている。お母さんのために死んでもいいって思っている。そのお母さんをお前は叩いたんだ」と。息子は目を丸くしてそれを聞いていました。
 その日の夕方、台所で夕食の準備をしている家内に「お母さんのために自分は死んでもいい」と息子に言ったことを話しました。家内は笑いながら、「私のために死んでくださるのはイエス様だけで十分。あなたはいつも機嫌よくしてくれていたらいいの」と。
愛って確かに難しい。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年8月

 この季節になるとNさんを思い出します。札幌キリスト教会の信徒で、六年前に天に召されました。私は札幌キリスト教会の管理牧師として、この方のお宅を年に数回訪問していました。お元気なときには教会の礼拝にもいらしていたのですが、体力が弱まり、また認知症もすすんで、教会に来られなくなったからです。ある日の午後、私が訪問した時は、サマーチェアに横になっておられ、奥様のお話しですと、午前中にも訪問客があったので少し疲れているということでした。
 「お前は誰だ?」と私に聞くNさんに、「主教さんじゃないの。教会の牧師さんよ」と奥様は恐縮しながら私にあやまります。訪問の意図を話しますと、「それが牧師の仕事なのか」とNさんは不機嫌そうにつぶやきました。早く帰ってくれという思いが伝わります。
 すぐ失礼しますが、今日はこれを持ってきましたので・・・・と、バッグから容器を取り出し、中から聖別されたご聖体のウェハースを彼の目の前にかざしました。その途端、Nさんは、ふんぞりかえるように座っていた椅子から転がり落ちるように床に降り、ひざまずいて十字を切り、両手を差し出したのです。「主イエス・キリストのからだ」、「アーメン」の声が大きく響き、Nさんは深く身をかがめて祈っていました。
 最後まで私が誰であるかわからないようでした。しかし、主の聖餐のこと、それがNさんにとって何よりも大切であるということはわかっておられたのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年7月

 北海道教区の聖職の方々には、現役退職を問わず、また特に管理牧師、協働の任にある方には、北海道の広さ故に、大変な忙しさを強いることになります。そしてこの私も、道内の巡回の他に、本州に飛ぶことも多く、信徒の方々が心配をしてくださっています。
 ある教会を巡回した際、一人の信徒から、教区事務所報の主教日程を見ると、主教さんはいろんなところを飛び回っているけれども、どうしていつもそのように元気でいられるのですか・・・と聞かれました。その問いは図らずも私を自分の存在の原点へ連れ戻しました。その日の愛餐会の時、妻がコメントを求められ短く話したのですが、こういう内容でした。夫はとても強そうに見えるかもしれないが、決して強いわけではなく、重責のあまり、落ち込んだり、時には打ちのめされて帰って来ることもある。けれども、こうして毎主日の巡回に行き、教会に温かく迎えられ、夫自身が癒され、力づけられ、ある意味、聖職として正気に戻されている・・・と。
 聖職とは仕事ではなく、生き方そのものだと信じてきた私が、聖公会という組織を大切に思い、守ろうとするあまりに、「仕事」としての責任の重さに押しつぶされそうになってしまうことがあるのです。そんな時、信徒お一人おひとりの生き方に触れ、その信仰に圧倒され、優しさに癒され、私はまた新たな魂の活力をいただき、その一週間を過ごさせていただくのです。
 日曜日ごとの聖餐と信徒の方々からの信仰のエネルギーを得て、私は「元気」でいられるのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年6月

 春から初夏にかけて、北海道では様々な香りに包まれます。フキノトウに始まり、うど、しどけ、行者ニンニク、ミツバ、フキなどの香り高い山菜。花ではアカシヤ、ライラック。名も知れぬ野の花がほんのりと柔らかい香りを放っていることもあります。夏に生えてくる茗荷の匂いを嗅ぐと妻はいつも幼い頃を思い出し、胸がキュンとなるそうです。夕食の時間になると、庭の茗荷(みょうが)を採ってくるのが彼女の役目だったとか。もう二度と戻らないその頃の思い出。
 人間の五感の中で一番鋭く、そしていつまでも記憶に残る
のは嗅覚だそうです。母親の匂い、あかちゃんの匂い、故郷(ふるさと)の街の匂い、恋人の髪の匂い・・・。私たちはその嗅覚をたどりながら、その匂いそのものではなく、その時の自分自身の存在を懐かしみ、慈しむのでしょう。
 私たちがキリストの香りを放ち、それも、ほのかに、静かに、その香りを放ちながら、出会う人々の嗅覚に染み込み、キリストご自身の深い慈しみの中に身を置くことのできる幸いを得ることができるようにと、密やかに祈りたいものです。
 旧約の時代、エリヤが聞いた神の声は、山を裂き、岩をも砕く風の中ではなく、地震でも火の中でもなく、ただ「静かにささやく声」(列王記上一九章)だったのです。「エリヤよ、ここで何をしているのか」・・・。慈しみに溢れたその言葉は、今、私たちにも語られます。「誠実」というほのかなキリストの香りを探がしながら・・・。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年5月

 今年の北海道教区の標語「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に涙を流す」、これには何人かの方からお叱りの言葉を受けました。聖書では「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」となっているからです。(ローマ12:15) 昨年の教区会での主教告辞の中で、私はカトリックの塩田泉神父様のお作りになった歌、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に涙を流す・・」を引用し、宣教活動推進部はこの言葉を受けて標語としたのです。この歌は、後に次のような歌詞が続きます。「互いに祈り、互いに労(いたわ)り、惜しみなく与えよう、キリストのうちに」・・。そして「喜ぶ人と・・」と繰り返されます。
 震災後一年を迎え、誰もがどのように被災者の方々を支えてよいかわからない中、私たちはただただ神様に祈り、泣き、ささやかでも自分に出来ることを探し求めてきました。被災者の方々に喜びが与えられるように、泣く人の傍(かたわ)らに一緒に涙を流す人が与えられるように、そして労りと必要なものが与えられるようにと。
 それは、まさに、私自身の傍らにいつもいてくださる主イエス様が、被災された方々と共にいてくださるようにという祈りでした。主イエスのお姿は、被災地にあって、自分を捧げて働く人々の中に現されています。離れている私たちは、「キリストのうちに」祈ります。どこを向いても厳しい現実の中、私たちは主イエスに助けられながら、ひたすら喜び、泣き、祈り、労り、与えるのです。それが私たちの生活の基盤となるように。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年4月

写真:植松主教とまき子さん植松主教とまき子さん(熊谷和彦氏撮影)「主教室より」に初めて写真を載せます。私と一緒に写っているのは新冠(にいかっぷ)聖フランシス教会の熊谷まき子さん。六十年前、私はこの方に取り上げてもらって生まれてきたのです。まき子さんは、山梨県清里の聖ルカ診療所で看護婦として働いておられ、医師であった私の母の大事な助手でした。母が私を出産する時、まきちゃんは母の指示に従いながらお産婆さんをし、私のこの世への誕生に立ち合ったのです。
 その後、ご縁があって、遠く新冠に嫁いでこられました。母はまきちゃんが去った後、数日間、泣いて暮らしたとのことでした。
 十五年前、私が北海道教区の主教として赴任してきて、まきちゃんとの劇的な再会が成ったのです。今私は新冠の管理牧師として毎月のように新冠の教会に行きます。母と同い年である八八歳のまきちゃんは、いつも私が着く数十分も前から教会の玄関で私を待っていて、私が着くと「まこちゃん、まこちゃん」と呼びながら私を抱きしめます。
 六十歳の赤ん坊と、彼を取り上げた八八歳のお産婆さん。いい写真でしょう。

主教 ナタナエル 植松 誠

2012年3月

 先月、私は還暦を迎えました。道央の教役者有志が祝いにと夕食に誘ってくださいました。赤いちゃんちゃんこを着させられるのではと恐れたのですが、上品な紫色のマフラーをいただき大いに感激しました。
 五十代というのと、六十歳になるというのでは、たった一日の違いであっても、私の中では自分の生きる世界が変わったかのような複雑な思いがあります。今まで東京行きの安い航空券を必死で探していたのに、ふと見ると六十歳以上はいつでもシニアとして安く買えることがわかった時、決して嬉しくはなく、自分がそのようなカテゴリーに入ったことに何か信じられない衝撃を覚えるのです。
 しかし、ちょうどそのような時に、私は続けて二回、体調を崩して寝込みました。年相応なのだと思い知らされながらも、この大きな変化とは、考えようによっては、シナイでの長い放浪から、ヨルダン川を渡って約束の地に入れていただいたという祝福なのではないかと思い始めています。
 今まで、私は年配の方や高齢の方にはそれなりの尊敬をもって接してきたつもりです。でも、それは、私とその方との間の小さなヨルダン川を隔ててでした。自分はこちら側という思いで向こう岸を見ていたように思います。
 今もそれらの方々への尊敬の念は変わりません。それなりに失礼のないようにと思いながらも、少し気が楽になっている自分を発見します。隔てるものがなくなって、自分も仲間に入れていただけるのではなどとひそかに期待しています。

2012年3月 主教 ナタナエル 植松 誠

2012年2月

 翌日の新冠と平取の主日礼拝をひかえた夜、熱っぽくて少し身体がだるいので早めに床につきましたが、その翌朝、頭痛とひどい咳と喉の痛み。熱を計ると八度三分。一瞬、坐薬か何かを使ってでも行かなくてはと思いましたが、雪の中、片道一四〇キロを運転して午前と午後、二つの教会を回るのはとても無理と判断しました。
 内海執事に電話をし、状況を話しますと、「主教さん、無理をしないで。こちらは大丈夫ですから」との優しいお言葉。
 結局、その主日の巡回は取り止め、一日、布団の中で過ごしました。三〇年前、聖職に按手されて此の方、日曜日に病気で寝込んだのは、これが初めてでした。日曜日は何があっても教会で礼拝するというのが極めて当然のことであった私にとって、主日に寝込んでいるということは、まるで自分の存在意義を否定されるようなショックな出来事でした。新冠と平取の信徒一人ひとりの顔が浮かんできます。皆に心配をかけてしまう・・。もしかすると、この両教会の信徒は今月、一度も聖餐を受けられないかもしれない。急なことで、内海先生は説教をどうされたのか・・・、などと次から次へといろいろなことが脳裏をよぎります。
 これまで当たり前だと思っていた聖職者としての主日の務めですが、改めてその職務の重さを考えさせられました。週日、それぞれの生活の場で一生懸命生きた信徒たちが集まってくる主日礼拝。そこにお仕えする聖職として用いられていることの重さを深く考えさせられた日曜日でした。

2012年2月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年1月

 新しい年になりました。教会の暦では元旦は「主イエス命名の日」です。クリスマスから七日目のこの日、あかちゃんに「イエス」という名前がつけられました。「イエス」とは「主は救い」という意味があります。
 もう一つ、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)と預言されていたように、名前というよりはイエス様の存在を象徴する呼称として「インマヌエル」という名がありました。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。(マタイ1・23)
 今年のお正月、「おめでとう」と言えない、言うのがはばかられるという方々がたくさんいらっしゃると思います。東日本大震災で愛する家族や友人をなくされた方々、津波や放射能汚染で被災された方々、また私たちのすぐそばにも家族をなくされ、喪中だという方や、ご病気、失業、経済的困難の中で悩み苦しんでいる方が多くいらっしゃいます。確かに「おめでとう」とは言えない現実があります。
 悲しみや苦しみ、悩みを抱えながら多くの方々がクリスマスを過ごし、お正月を迎えました。しかし、「おめでとう」とはとても言えない私たちのただ中にイエス様はお生まれになり、「主は救い」であり、神様が私たちと共にいてくださると宣言する「主イエス命名の日」から、この一年が始まりました。
 この新しい年、何があろうと、何が起ころうと、イエス様が私たちと共におられ、私たちの救いとなってくださることを信じます。

2012年1月 主教 ナタナエル 植松 誠