北海道教区第七〇(定期)教区会 主教告辞

[教区会開催にあたって]

 昨日から北海道教区第七〇(定期)教区会が開かれております。この教区会のために北海道教区の各教会から、お忙しい中、ご出席くださいました聖職議員、信徒代議員、教区役員、招待議員、またこの教区会のためにご奉仕くださいます皆様に深く感謝いたします。北海道教区にあっては、教区修養会であっても、教区礼拝であっても、教区婦人会総会であっても、教役者会であっても、人々が一つ所に集まること自体、その集会で得られる学びや話し合いの結果以上に、神様の偉大な御業が行われたと私はいつも思います。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編一一三:一)は、いつもは広い北海道で遠く離れている私たちが集い、神様のみ前にただただ共にいることの喜びと感謝を表した歌だと思いますが、この一年間も、それぞれの教会や一人ひとりの聖職・信徒がいろいろな困難や試練の中にあっても、神様のお恵みの中で守られ、導かれ、祝福されてきたことを、今、ここで共に喜び合うことができますことを神様に深く感謝するものであります。そして、この教区会を通して、イエス・キリストを主と信ずる北海道教区の家族の絆がますます強められ、共に担う宣教への新たな力と希望が与えられますよう、主のお導きと祝福を心から祈ります。

[人事]

 人事について申し上げます。昨年の教区会後の十二月、池田亨執事が司祭に、また内海信武聖職候補生が執事に按手されました。藤井八郎司祭はさる三月末で定年退職となられましたが、引き続き嘱託として函館と今金の教会のためにお働きいただいております。横山明光司祭はウイリアムス神学館での学びを終え、4月から岩見沢と美唄の牧師として勤務についておられます。昨年四月に聖公会神学院に入学された永谷亮聖職候補生志願者は、今月の一日付で聖職候補生として認可されました。また、雨宮大朔司祭は、来年三月末で定年となられます。長きにわたる教区での雨宮司祭のお働きに、この教区会として深い感謝を表明したいと思います。現在、北海道教区では主教を含めて十六名の現役聖職(内一名は出向中)がおりますが、二四教会と九つの幼稚園・保育園の牧会宣教は、嘱託聖職や退職された聖職の皆様のご奉仕の協力がなければ考えられません。嘱託・退職の聖職の皆様にも、この場をお借りして深く感謝いたします。現職・退職の教役者が一つの聖職団としてこのように協力し合っていることは北海道教区の特色であり、そのことを私は誇らしく思っております。今後も教区は教役者が足りない状況が続きます。聖職へ献身する方々が興されますように、皆様のお祈りを続けてお願いいたします。

[東日本大震災と北海道教区]

 今年三月十一日に起きた東日本大震災から八か月余が経ちました。あの日以来、私たちの生活は大きく変わりました。地震、津波、そして福島第一原発の事故によって引き起こされた事態によって、これらの被災地にいらっしゃる方々はもちろんのこと、日本中でまた世界の各地で、多くの人々のそれまでの生き方、価値観、人生の意味や目的などが大きく揺さぶられています。今回の大震災について、いろいろなことが言われています。豊かになり過ぎた人間社会、人間の思い上がり、地球環境や自然をも支配しようとする人間の傲慢、また特に日本人が学ぶべき多くの教訓があることも言われています。今までの生活を見直すこと、家族とは何か、人との繋がりや地域社会共同体とは何か、生きるとは何か、真の豊かさとは何かを改めて考え直すように、等々。日本全体がそのような教訓をこの大震災から得られるにしても、あまりにも大きな犠牲、そして想像を絶する大きな悲しみ、愛する人との突然の別れ、一生かかって築いてきた家庭や財産、仕事などの一瞬にしての喪失、見通しの立たない原発事故の行く末、それによって避難させられたり離散させられた人々など・・・。これらを今、私たちはどのように説明できるでしょうか。なぜ、神はこのような苦しみや悲しみが、家族を大切にし、隣人を大切に静かに生きて来られた多くの善人に、またいたいけな子どもたちに降りかかるのを許しておられるのか・・・。これは私が何人もの信徒や人々から聞かれた問いです。今回の大震災は私たちの信仰のあり方をも根底から揺り動かしました。自分が今まで、どんな困難の中でも、どんな逆境の中でも、そこに神様の愛とみ守りがあるのだから、希望を持って生きようとずっと言い続けてきたことは決して間違ってはいなかったと思いながらも、今、このような大震災の犠牲者や被災者を前に、それをどのように伝えることができるか、私たちは信仰者として、今どのように「福音」を生き、それを伝えていくことができるかを問われています。
 大震災の被害を最も受けたお隣りの東北教区は、北海道教区と宣教協働関係にあり、ここ数年いろいろな行事を通して交流をしてきました。北海道教区では大震災発生後、直ちに支援室を設置し、私たちに出来ることは何かを検討しました。その結果、岩手県の釜石を北海道教区の支援活動の拠点と定め、東北教区、またこの地の釜石神愛教会及び釜石神愛幼児学園(保育園)と連携して活動を開始しました。四月からは約一か月交代で教役者を派遣し、またボランティアも継続して送っており、これまでに延べ九人の聖職、また六十人を越える信徒が釜石で支援活動にあたってくださいました。
 北海道教区は聖職の数も足りなく、過去の教区会においても、毎回、教役者が少ない、足りないということを問題にしてきました。しかし、今回の大震災以来、北海道教区は毎月のように釜石に教役者を派遣しております。「少ない」、あるいは「ない」ところから身を削るような思いで教区は教役者を送り出し、また、送り出された教役者の苦労もどれほど大きいものであったかを今改めて思います。大震災が起こらなかったら、このようなことは最初から到底無理だとして考えられなかったことでしょう。当然、いくつもの教会を牧会・管理している教役者を、長い期間、遠方に派遣するということによって起こるであろう様々な問題や心配を考えてしまいます。しかし、それでも、その教役者の空いたところを、他の現役、退職教役者が埋め、信徒たちが教会を守り、主日礼拝を守り、派遣された牧師のために祈るという姿を見る時に、何か大きなことが北海道教区に起こっているように思えます。一昨年及び昨年の教区会で、私は信徒力を養うことが重要だと申しましたが、まさに、釜石への教役者の派遣は信徒の働きが無ければ叶わなかったことなので
す。
 このような信徒たちに送り出された教役者は、釜石でそれぞれの賜物を生かした働きを展開しました。それは、自分が派遣されているそれぞれの教会とはまったく異なる、釜石という被災地での働きでした。それまでの謂わば慣れ親しんでいる教会から釜石に派遣されるというときに、どの教役者も大きな不安や恐れを感じたことでしょう。しかし、教役者がそれぞれに与えられている賜物を用い、それぞれの個性によって釜石の被災者に関わっていく中で、どの教役者も決して同じ仕方ではなく、多様で豊かな結果が毎回得られたことに私は深い感動を禁じ得ません。それぞれの派遣教役者の報告を読みながら、また釜石の方々の感謝の声をお聞きしながら、私がそれまで北海道教区の中で知り、理解していたこれらの教役者の姿とはまた違った新たな側面を発見できたことを感謝しています。
 信徒ボランティアの方々にも深く感謝いたします。釜石での受け入れ態勢も万全ではない中、時間や仕事をやりくりし、また迷いや不安を持ちながらも、遠く釜石まで行ってご奉仕くださったことを感謝いたします。
また、祈りと献金をもって、そして支援物資を作り、調達し、釜石を始め被災地に送ってくださっている多くの信徒の方々にも心から感謝いたします。これらの支援には痛みや犠牲も伴います。善意の業が受け入れてもらえないと思うこともあります。何の見返りもないことも多々あります。それでもひたすら祈り、捧げ、心を遣い、送り続けてくださる方々に深い感動を覚えます。
 先程、北海道教区に大きなことが起こっていると申しました。今回の大災害が起こり、北海道教区のすべての人々、釜石に派遣された教役者も、行っていない教役者も、釜石にボランティアで行った信徒も、行っていない信徒も、それぞれがいる場所で、一人ひとりが「この大震災の中、私は、私たちはどのように福音に生き、それを伝えるか」という信仰的課題に向き合っています。「なぜこのようなことが起こるのか。神はなぜこのようなことが起こるのを許しておられるのか」という問いに対して、私たちがどのように答えるかということは、今の段階では、決して声高にそれを説明しようというのではなく、ただひたすら、祈り、呻き、また涙を流しながらも、被災者に寄り添い、共に歩み続けることだと私は思います。日本聖公会としても「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動を通して、被災者と私たちが一緒に歩むことを願っています。決して神の摂理を、神の愛を説き明かすのではなく、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に涙を流す」(ローマ十二:十五)私たちの生き方を通して、神様ご自身が働いてくださることを信じたいのです。今、福音宣教とは何かということを新たな視点をもって考えさせられ、気付かされている北海道教区だと思います。そして、この大震災を通して与えられる新たな宣教の視点とは、実は、私たちの身の回りでも同じことが言えると思うのです。決して大きなことではなく、毎日の私たちの生活の中で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に涙を流す」こと、そこにキリストご自身がいらっしゃることを信じて、地道に歩み続けることに私たちは今、招かれているのだと思います。
 五つのパンと二匹の魚のように、捧げられたものはほんのわずかであっても、その何倍もの祝福があることを思い出しましょう。釜石にあっても、北海道にあっても、私たちの小さな歩みを通して、大きな大きな祝福に与っていることを信じるとき、私たち北海道教区には、新たな力が湧き上がってくるのではないでしょうか。
 これからの新しい一年も、私たちの歩みを、主が導き、守り、豊かに祝福してくださいますように。

主教 ナタナエル 植松 誠

2011年11月

 自慢話の多いご高齢の方がいらっしゃいます。齢(とし)をとるとともに、寂しさや孤独を感じることが増えてくるのでしょう。そして自分の現在の存在そのものに価値を見いだすのがむずかしくなるのかもしれません。何とか自分を奮いたたせるために、また人に自分がどんなに立派な人間であるかを知ってもらうために、自分の過去の栄光を話すのです。自分が若かった時にどんなに苦労し、活躍したか、どんなに教会のために尽くしてきたか、だれとだれを自分は教会に導いたかなどということを。
 それらの話の内容は多分本当のことだと思います。そのような話を聞き、「そうですか、それは大変でしたね」とあいづち相槌をうちながらも、ちょっと心配になるのです。せっかく、天に蓄えてきた宝物(貯金)をこの人は引き出してしまっていると。さびも虫もつかず、盗人が忍び込んでくる心配もない天国に蓄えていたものを、今、人生の終わりに近づきつつあるこの時に、払い戻ししてしまうとは何ともったいないことかと。
 「自慢話には要注意」と人ごとのように言っている私に、わが家の隠者は、「あなたも最近自慢話が多くなった」と。「それはまずい。天国の貯金を引き出してしまっているんだなあ。注意しなくては」と言うと、「そもそも、あなたはとんでもない勘違いをしている。第一、天国に今まで、しっかり宝物を蓄えてきたと思っていること自体、大きな間違いだ」とピシャリ。確かに、何が宝となって天国に貯金されるかは神様がお決めになること。自慢話以上に要注意、要注意!

2011年11月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年10月

 先月、南米エクアドルの首都キトで開かれた米国聖公会主教会に出た際、ホテルの中にある「京都」という寿司屋に行ってみました。シェフも店員も全員現地の人。そして出てきたのはとても寿司とは言えないものでした。芯があり、酢がききすぎているシャリ。水か電子レンジで急速解凍したと思われるネタ。それでも結構高価なので、必死に食べましたが、ついに途中でギブアップ。「こんなもの、寿司と言えるか!」と文句をつけようと思ったのですが、繁盛しているこの店の客たちが、皆器用に箸を使いながら美味しそうに食べているのを見て認識を改めました。「これは日本の寿司ではなくて、エクアド ルのSUSHI(スシ)なのだ」と。
 エクアドルで日本の常識を主張したところで、現地の人には通用しないでしょう。よく「教会の常識」と「社会の常識」が異なっていると言われます。教会の(牧師の)言っていること、していることが一般社会では通用しないというような否定的な意味合いでです。それが「公序良俗」に全く反するものでしたら問題ですが、私は敢えて、教会と社会は異なっていて当然と言いたいのです。競争原理や健全経営、目標達成型の社会や会社と教会は違います。私の知る限り、私が体験したことから言えるのは、「教会の常識」は一般社会では常に摩擦や緊張を引き起こすということ。それはイエス様の周りでいつも起きていたことです。そこで私たちは福音に根ざす「愛の常識」をどのように伝えるかが問われます。

2011年10月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年9月

 夏のある日曜日、教会の巡回を終え、ワクワクしながら車を走らせました。昼食はあの蕎麦屋で食べると決めていたのです。今までも何回か行ったことのある蕎麦屋。美味しいのです。さあ、今日はざるにしようか、天ざるもいいなあ、それも大盛りにして・・。などと考えながら期待は大きく高まります。一時間ほど走り、その蕎麦屋に到着。駐車場はすでに車で一杯。やっとのことで隅に車を停めて、入り口まで行って驚きました。列が外まで長くできているのです。これでは相当待たされる。私は諦めて、車に戻りました。駐車場の車のナンバーを見てまた驚きました。遠い所から来ているのです。数時間もかかる札幌は勿論、北見や函館、そしてレンタカーも多くあります。きっと新千歳空港に降りた観光客なのでしょう。決して立派でもないし、大きな看板が出ている訳でもないこの田舎の蕎麦屋が、実に美味しい蕎麦を出すことを皆知っているのです。
 山の奥、谷の底の方に未舗装の狭い道を運転し、ようやく辿り着いた温泉。秘湯だと思っていったのに結構多くの人で混んでいるということもあります。でも入浴するとそれが最高の湯。そこに来るまでの苦労などすっかり吹き飛んでしまいます。多くの人が来るのも当然です。
 蕎麦でも温泉でも、それが本当によければ、それが本物ならば、人はそれを求めて遠くからでもやって来ます。教会は主イエス様の福音を持っているところです。本物があるはずです。

2011年9月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年8月

 「ワタナベさ〜ん、ワタナベさ〜ん。大丈夫ですかーっ」。教区会館八角堂の隣の消防署では、夏になると様々な訓練が始まります。非常階段三階の踊り場に横たわる等身大の人形を使っての救助訓練なのですが、その人形の名前がどうやら「ワタナベさん」らしいのです。このように訓練しているからこそ、消防士の方たちはいざという時に、危険な火事の中でも人命救助ができるのでしょう。
 さて、私たちの信仰に訓練は必要ないでしょうか。確かに罪は贖(あがな)われたものの、キリストを生きるということは口で言うほど容易(たやす)いことではありません。逆境の中でも希望を持つこと、いつも喜んでいること、人を赦すこと、何よりも人を愛すること。一生をかけて訓練していかなければ、主教である私であっても到底できないことなのです。
 日々の小さな出来事…。私たちは、家族に対して、教会、職場、学校で出会う人に対して、道で出会う人に対して、思い通りにならないお天気に対して、すぐれない体調に対して…、すべてのことが主の御手の中にあることを信じ、主にあって喜び、主にあって悲しみ、主にあって赦し、主にあって愛することを望むのです。それがたとえぎこちなくても、下手でも、いつも祈りながら、聖書に聴きながら、小さな訓練を積み重ねていくうちに、いざという時、自分の命を惜しまず捧げることができるのでしょう。
そして、私たちは日々、自分の魂に問いかけます。「○○さーん、○○さーん、大丈夫ですかーっ…」。

2011年8月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年7月

 三月十一日の大震災以来、私たちの生活は大きく変わりました。直接被災してもいない私が、しっかりしなくては、頑張らなくてはと思いながら、ちょっとしたことで涙が溢れたり、体調や精神状態が不安定になったりもします。イライラすることも度々で、その矛先が周りの人に批判となって向けられます。こんなことではよくないと自分でも思っていたちょうどその時、教区修養会が開かれました。
 たった二日間の短い集いでしたが、私にとってはまさに魂と心の豊かな療養(リハビリ)の時となりました。植松功さんの話は、主イエス様の福音が如何に単純で素朴なものであるか、そして、それでいてその中にどんなに豊かな愛と慰め、希望と喜びが溢れているかを、決して押しつけることなく、優しく、ゆったりと私の心の奥にまで染みこませてくれるのを感じました。繰り返し歌われる短い歌も、沈黙も、最近の忙しく困難な働きによって私が着込んでいた何重もの重い鎧を、一枚一枚と取り去ってくれました。
 「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)という主の呼びかけも単純です。しかし、自分の力を過信していたり、忙しく走り回っている者、またそれ故に他を批判してしまう者にとっては、このありがたい主の招きも耳に入らなくなってしまうのではないでしょうか。立ち止まって、肩の力を抜き、単純素朴な福音に、そして祈りと沈黙に身と心を委ねることが必要だと思わされました。

2011年7月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年6月

 カンタベリー大主教様
 この度の大震災に際して心温まるお手紙とお祈りをありがとうございました。
 今、私の心にある感謝と喜びを貴方にお伝えしたいと思います。大震災の日以来、世界の聖公会管区の首座主教たちから見舞いのメールをいただいております。その多くは、この一月末にアイルランドのダブリンで開かれた首座主教会議でお会いした方たちからのものです。彼らのメールはすべて、首座主教への正式な敬称抜きで、私をただナタナエルと呼んでいます。それが何を意味するのか私にはよく分かります。彼らにとって私が、また私にとって彼らがどんな身近な存在であるかということなのです。彼らが犠牲者を悼み、被災者のために祈り、また日本の教会を案じているその手紙を読みながら彼らの顔や声が鮮やかに浮かんできます。ダブリンで一週間、一緒に過ごしたことは、まさに世界の聖公会にどのような問題や困難があっても、私たちは首座主教として互いにその責務を負い合うということを学ぶ機会ではなかったでしょうか。私たちはダブリンで、首座主教の役割は何かを話し合い、欠席した首座主教たちのためにも祈りながら、首座主教たちがもっと互いに献げ合うことの大切さを学びました。その結果が、このような大惨事の中で、私は決して一人ではないという思いに至らせてくれたのです。そのことを私は主に感謝しています。
 ローワン、ダブリンでの首座主教会議は大成功でしたね。私は胸を張ってそのように言えます。

2011年 6月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年5月

 この春の教役者人事異動で、その一人から、今回の主教の人事は冷酷だと思うと言われました。たぶんそのような思いは、その司祭だけのものではないでしょう。
 でも、この場を借りて、二点申し上げたいと思います。その教会での牧師生活が数年を過ぎ、信徒との良い関係もできつつあり、牧師としてそれまでやってきたことも皆に認められるようになってきて、さあ、これから…という時の異動命令。冷酷に見えたでしょうね。しかしこの教会を今離れたくないというその司祭の思いを聞き、私は彼の牧師としてのその教会での働きが如何に祝福されていたかがよく分かります。人事異動でこのようなつらさを感じるのはお恵みです。
 もう一点は私の体験談。昔大阪教区にいた時、主教から私に突然人事異動の話しがありました。私は「主教さんのおっしゃることには従うが、ひとつその前にお話ししておきたいことがある」と言って、その教会で私がしてきたことがまだ継続中で、そこに私は大きな夢を持っていること、今それが中断することは教会にとって良くないなどということを説明しました。主教は黙って聞いておられましたが、私の話が済むと、「よく分かりました。そのようなときに動くのが、あなたのために良いことです。」と静かにおっしゃいました。牧師として働く中で、自分の力や手腕に自信を持ってしまう危険性を指摘してくださったのです。その後、それまでの教会にも、転勤先の教会でも、主は間違いなく大きな祝福を用意していてくださいました。

2011年5月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年4月

 一六年前、阪神淡路大震災が起きた数日後、管区事務所総主事であった私は、新幹線が復旧してすぐに被災地に行きました。そして少し高い地点の芦屋川の橋に立って、目の前に広がる神戸市街の惨状をみたときの戦慄を今も覚えています。倒壊した家々、まだ立ち上っている煙。テレビでは伝わらないものは、土埃の臭いとものが燃えている臭い。そして、日本全国から来ている消防車や救急車のサイレンと、頭上を飛び交うヘリコプターの爆音。一体これは現実なのか悪夢をみているのか分からなくなりました。
 今回の大震災の二週間後、仙台に入り、加藤主教と一緒に津波に襲われた仙台空港、名取地区を訪れました。海岸線から数キロも内陸に、一面の瓦礫の山。わずかに残る機のてっぺんの枝に、流された布片がひっかかっています。一〇数メートルのその高さを見上げながら、あそこまで波が来たということがとても信じられませんでした、ここでも、土埃の臭いと油の臭い。自衛隊やアメリカ軍と空を舞うヘリコプターの音。私も加藤主教も無言のまま立ち尽くすのみでした。
 あまりの大災害に、私たちは呆然としながらも、必死に祈りながら歩み出そうとしています。岩手県の釜石神愛教会を拠点として、ここに北海道教区から教役者を送り、救援・復旧活動を開始します。四月七日にまず飯野正行司祭が一ヶ月の予定で出かけます。これから長く続く支援に私たち北海道教区の皆の祈りを集結しましょう。

2011年 4月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年3月

 教区会館前の道路はゆるいカーブになっていますが、これが冬には魔のカーブに一変します。なんでもないカーブのように見えても、冬はツルツルに凍っているので、相当スピードを落とさないと曲がりきれず、ガードレールにぶつかるか、ものの見事にスピンしてしまいます。凍った満ちに薄く雪が積もる「ブラックアイス」にでもなれば危険はさらに増し、対向車と衝突という事態もよく起こります。教区会館の門柱や駐車場の塀に突っ込んできたことも数回。また、私が救急車を呼んだり、警察に電話したことも何回かありました。
 教区会館の二階の窓から見ていると、「あのスピードでは無理だ。ガードレールにぶつかる」とか、「アッ、対向車とぶつかるぞ」と予測ができ、実際、そのような事故を目撃することになります。
 牧師を長くしていますと、信徒がその生活の中で無事にカーブを回れるかどうか、ある程度予測がつきます。順風満帆の生活を送っているように見えても、一度試練というカーブにさしかかると、いとも簡単にスピンしたり衝突してしまいそうだと。あるいは、一見弱そうに見える信徒が、いざというときにちゃんと持ちこたえるであろうと。そして、いつも牧師は信徒の「無事」のために祈っているのです。
 四月に入ると、この魔のカーブの脇の雪の中から、鮮やかな黄緑色をしたふきのとうが一斉に萌え出します。主のご復活にあわせて北海道の長かった冬もやっと終わりになります。

2011年3月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年2月

 「天の父よ、すべての主教・司祭・執事、ことに我らの主教イサクに恵みを与え…」。私が幼い頃、聖餐式の代祷でいつも聞かされていたこの祈り。イサクは当時の南東京教区(現在の横浜教区)主教の野瀬秀敏主教様。「我らの主教イサク」とはどのような方なのか私は幼心にも深い関心がありました。そして巡回にいらした野瀬主教を見て「みんながこの人のためにいつも祈っているのだから、きっとすごいお方なんだろうなあ」と思いながら、その一挙一動をドアの陰から覗いていたのを覚えています。そして野瀬主教から優しく声をかけられた時にはもう嬉しくて嬉しくて外を跳ね回った右のでした。
 今、私は、北海道で聖餐式の度に、「すべての聖職と信徒、ことにわたしたちの主教ナタナエルを導き…」と祈られています。主教に按手されてこの三月で一四年になりますが、毎回この代祷を聞く度
に、私の心は大きな、そして熱い手で持ち上げられるのを感じて動揺します。いつもみんなから祈られていることの凄さ。一人の祈りであり、それはまた皆の共同の祈りとして、「神よ、ことにわたしたちの主教ナタナエルを導き…」と祈っていただくこと。「主教さんのためにお祈りしていますよ」とも多くの方から言われます。自分の弱さや足りなさを私はよくわかっています。その私が主教職を務めることができる力は決して私の内にあるものではなく、ひとえに皆様の祈りの賜物であることを改めてしっかりと心に留めている今日このごろです。

2011年2月 主教 ナタナエル 植松 誠

2011年1月

 「確認! 水道の水落とし、ガス栓、窓・戸閉まり、電話転送、郵便物」という貼り紙が教会の玄関にありました。この教会はもうかなり長い年月、定住牧師がいません。この日も信徒たちは主教を見送った後、皆で片付けや掃除をし、最後に出る人は、この貼り紙を見ながら、指さし確認をして玄関に鍵をかけて出ていくのでしょう。
 朝、少し早過ぎたかなと思いながらこの教会に着いたとき、既に何人もの信徒がいろいろな準備にあたっていました。ホールはもう暖かくなっていて、台所では鍋から何かいい匂いが漂っています。礼拝堂では一人がオルター(聖卓)で聖餐式の準備をしていて、オーガニストはその日の聖歌を練習しています。そして、その礼拝堂には一人で祈っている人もいて、「おはようございます」と声をかけるのもはばかれる厳粛さがあります。
 この教会の礼拝には週報が用意してあります。週報を作るのは八〇歳を超えた信徒です。週報作成のために、このお歳になってから、市のシルバーセンターに通って、パソコンの講習を受けたとのこと。とても骨が折れるのだそうです。コンピューターを駆使した他教会の週報と比べるとあまり見ばえはよくありませんが、それでもその日の聖書の箇所や代祷などもきちんと載っていて、立派な出来映えに感心させられます。
 定住牧師がいない教会を守っているこれらの数少ない信徒たち。一人ひとりに神さまが与えてくださっている仕事を当たり前のように静かに行う姿に、私は大いに励まされるのです。

2011年1月 主教 ナタナエル 植松 誠