2018年11月

 昨年亡くなった両親は、以前から献体の手続きをしていました。母が医者だったこともあるせいか、献体に関してはとても熱心で、毎年行われる献体登録者の会にも出席していたようでした。若い医学生が学ぶためにとの思いもあったのかもしれません。昨年3月に召された父のお骨が、来年1月末に戻ってくることになりました。魂は天国にいるのですが、これを機会に子どもたちが集まって受け取ることになりました。
 一般的に、日本人にとって、お骨はやはりとても大切なものです。親であったり、子どもであったり、伴侶であったりした愛する者の生きた証しであり、在りし日の面影をそこに見出すのです。もう温かい手も体もないが故(ゆえ)に、せめてその深いところにあった骨を慈しむことで気持ちを収めるのかもしれません。
 キリスト教信仰では、魂のない体も骨もただの滅び行く肉体です。それが頭ではわかっていても、もし愛する子どもだったり、伴侶だったり、親だったら・・・、ましてや、復活の信仰を持たない人たちにとって、どれほどお骨というものが大切かは容易に想像できます。
 先日、札幌キリスト教会で開かれた「世界宗教者平和会議」のシンポジウムでお話しくださった、殿平善彦ご住職の遺骨返還の活動は、私たちにとってはとても衝撃的なものでした。強制連行され、重労働を強いられ、挙句の果てに物のように捨てられた人々。一人ひとり埋葬されたのは稀(まれ)で、その多くは何人もが一緒に埋められ、誰の骨かもわからなくなっている状況。ご住職はその中から遺骨を拾い上げ、韓国の家族に返す働きを最初はお一人で始められたのでした。宗教の違いを超えて、亡くなった方の人としての尊厳を守り抜くお働きに、心から、神の慈しみを覚えます。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年10月

 9月6日に起こった北海道胆振東部地震では、多くの方々からお祈り、お見舞いをいただき、また、各地からボランティアも駆けつけてくださいましたことに、心から感謝いたします。
 今回の地震のような想定外の災害が起こるたびに、どうしてこんなことが起こるのか、穏やかに生きている人たちがどうして理不尽に命を絶たれるのか・・・と、やりきれない思いになります。親を思う気持ち、子を思う気持ち、それらが分かるだけに、愛する家族を亡くした方々の、言葉にはならない絶望のような心の闇が私たちにも迫ってきます。
 そのように気持ちがふさいでいる中、ちょっとしたことがほんの少しの光を届けてくれます。信号機がついていない道路で、運転者はお互いに譲り合い、歩行者を優先し、待ってくれる人には礼を表し、いつもよりゆったりと流れる時間に合わせて運転をします。普段あまり行き来のない人たちから安否を問う便りや電話が届きます。店舗が営業を停止している中、畑の野菜を届けてくださる方、忘れられて賞味期限の切れていた食品を美味しく食べられたこと、停電や断水が解消して久しぶりに温かいシャワーを浴びたときの気持ち良さ・・・。一つひとつの小さなことがいつもとは違う、ささやかでも温かい喜びをもたらしてくれるのです。こんなに単純な、でもこんなに大事なことを、すっかり忘れていた・・・。そういう思いに至ります。
 被災者の方たちが、まわりから差し伸べられる手に「ありがたい・・・」と笑顔で、また涙を流しながら話しておられる映像は、私たちに勇気を与え、人は信じるに足るものという思いを強くしてくれます。破壊されたところに、足りないところに、痛むところに、どん底に、「愛」というものは、やはりきれいごとではなく、何よりも私たちの命を支えていることを感じるのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年9月

 8月のお盆近くに釧路と厚岸の教会を巡回しました。21年前、最初にこの両教会を巡回したのは7月の終わり頃でした。最初ということで、土曜日の夜、市内の食事処で鍋料理のおもてなしをいただきました。大阪でも東京でも真夏に鍋料理ということは先ずないのでとても驚きました。丁度その夜は「霧フェスティバル」ということで、食後、妻と娘とフェスティバル会場になっている岸壁に行きました。とても肌寒い夜でしたが、霧はまったくなく、澄み渡る夜空に、人工的に起こした煙が漂っていました。翌日の午後は厚岸の礼拝を済ませ、その夜は厚岸の旅館に泊まりました。信徒のSさんが、「明日はコンブ漁の解禁日で、朝5時に花火の号砲で一斉にたくさんのコンブ漁船が出て行くので、その豪快な光景を主教さんにお見せしたい」ということで、翌朝、4時半にSさんとご子息が車で迎えに来てくださいました。3時頃から家族3人、緊張して起きて待っていましたが、4時半、外に出ると、深い霧。何も見えない中、Sさんの車で、床潭(とこたん)という集落の海が見渡せる丘の上に行きました。この霧では、今日の解禁は延期かと思っていたら、ドーンという音が響き、一斉にゴーオーッという爆音が聞こえました。視界が全くない中、コンブ漁船の出航を想像しました。
 それから21年、今回は妻と二人、床潭のその丘に。快晴の中、海が眼下にどこまでも広がり、素晴らしい景色でした。あらためてコンブ漁解禁日の勇壮な光景を思い描きました。
 Sさんはご体調がすぐれず、厚岸の礼拝にはいらっしゃらなかったので、礼拝後、お宅を訪ねて病床聖餐式をしました。「Sさん、イエス様のおからだですよ」とSさんの手にご聖体を。Sさんは「いただきます」と。涙いっぱいの陪餐でした。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年8月

 「旅には杖一本のほか何も持たず・・・」(マルコ6:8)
 7月初旬、テキサス州オースティン市で開かれた米国聖公会総会に参加しました。オースティンは、昔私が神学校で学び、息子が生まれた懐かしいところです。今から36年前、私と妻は生後8ヶ月の息子をかかえて、日本に帰国する準備で大忙しでした。そのような時に、オクラホマ教区の母教会から招かれ、お別れの説教をしました。「私は7年前、米国に来たときには、『杖一本』、即ち小さなスーツケース一つだったが、今、私は豊かに満たされて日本に帰国する」と。
 それから帰国までの数週間、オースティンで私は日本に持って帰るものを荷造りし、売れるものはすべて売り払いました。日本に帰れば、大阪教区での教会勤務が決まっていました。何もないところから始めなくてはならないのだから、少しでも多くの資金を作っておく必要があると言って、家内が眉をひそめる中、ひたすらガレージセールに励みました。
 7年間にわたる米国生活で、主はこんなに祝福してくださったと喜びながら、私たち3人は帰国の途に就きました。サンフランシスコ空港で、搭乗手続きをする際、「パスポートを出してください」という係員に、はいと答えて下を見ると、そこにあったはずのアタッシュケースがない! 家内に聞いても無駄でした。僅かな隙に盗まれてしまったのです。パスポート、オースティンで稼いだ2千ドル、大阪教区からの支度金の10万円、卒業証書や執事按手の証も、いわゆる私の全財産が一瞬のうちに消え失せたのでした。
 私は何もかも失って日本に帰国しました。意気揚々と帰国し、大阪教区で華々しいスタートを切るはずでした。それが、金も袋もパンもなく、傷心のスタートとなりました。しかし、今、私は改めて言えます。何もない杖一本。それこそ神様からの豊かなお恵みであったと。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年7月

 6月5日からの3日間、東京で日本聖公会総会が開かれ、北海道からも私と聖職・信徒代議員2名ずつが出席し、様々な議案について討議しました。この総会で私は首座主教として選出され、新たに2年の任期が始まりました。この12年の間、札幌―東京間を往復する生活は、若い時はともかくとして、最近は年齢的なものか、正直なところ疲れを感じるようになってきました。各教会に巡回のたび、信徒の方々からの私の体を気遣ってくださるお気持ちに支えられ、なんとかやってこられたとつくづく思います。
 牧師は教会という組織を守りながら、一人ひとりの信徒に向き合います。主教も教区という組織を守りながら聖職信徒と向き合います。そして首座主教は他教区の主教と共に、管区という組織を守りながら、役目を果たしていきます。出来る限り、教区の一人ひとりの聖職信徒と向き合いたいと思いながらも、管区としての機能が滞らないことを優先してしまい、教区に重荷を負わせることになったというのも事実でしょう。
 北海道教区の代議員から出た議案「首座主教の任期は3期6年までとする」は、そのような私の状況を慮(おもんばか)ってのものでした。否決されましたが、私は、そのように配慮してくださった代議員の皆さんに心から感謝しています。ただ、この12年間、確かに大変だとは言いながらも、お恵みもたくさんいただきました。信仰生活というものが、苦しみの中で差し出される、神様からの想定外の喜びに私たちが圧倒されるように、首座主教であることのゆえに、たくさんの方たちとの出会いと分かち合いがあり、そして何よりもこの北海道教区の聖職信徒のお支えがあり、感謝の思いにも溢れているのです。
 この2年間(これが最後になります)も、主に助けを求めながら、務めたいと思います。祈りのうちに覚えられていることを信じつつ。

主教 ナタナエル 植松 誠  

2018年6月

 5月下旬から6月の初めまで、朝の聖書日課では箴言が読まれていました。普段あまり箴言を読むことはありませんが、聖書日課ですから、毎朝決められた箇所を開くのですが、真面目な顔でそれを読んでいる妻の声を聞きながら、思わず心の中で笑みがこぼれることが何度もあります。もし私が声を出して笑い出したら、おそらく妻も笑い出し、朝の祈りはそれ以上進まなくなるでしょう。例えば、今朝(6月2日)の日課では、「いさかいの好きな妻と一緒に家にいるよりは、屋根の片隅に座っている方がよい」(箴言25:24)と。
 大昔、イスラエルの民が住んでいたのは、遊牧の場合はテントでしょうが、エルサレムなどの街中では、レンガや石を積み重ねた小さな家。それは、いくつも部屋があるわけではなく、今で言う2Kくらい。中風の病人をイエス様のところに連れてきた友人たちが、その家の屋根(天井)をぶち抜いて、病人を担架ごとイエス様の前に吊り下ろすという話を考えても、あまり雨の降らない彼の地では、屋根もお粗末だったと思います。
 「いさかいの好きな妻」から逃れるのは、「屋根の片隅」なのです。屋根の真ん中では天井が抜けてしまうかもしれないから。でも、妻に何も言えないで、彼女の前からスーッといなくなり、屋根(屋上)に上っていく夫のいじらしい姿に、そして、屋根の片隅で、外を見下ろしながら妻の興奮が冷めるのをじぃーっと待っている彼の姿に漂う哀愁。父権(夫権)社会だと言われる旧約聖書の世界で、本当のところ、誰が一番強いのかを箴言はユーモアたっぷりに語っているような気がします。
 私は、若い頃、機嫌が悪くなると、ぷいっと家を出て行きましたが、妻は、どんなときでも家にいました。「私は大人だからね」と。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年5月

 四月中旬、六日間、インドのバンガロールで開かれたアジア宗教者平和会議に行ってきました。毎朝、ホテルから会場である大学までタクシーを使います。15分ほどのドライブですが、それはドライブなどと悠長に言えるものではなく、まさに命がけの出撃のよう。道路は三車線であっても、そこに車が五列でひしめきあい、少しでも隙すき間まができるとそこにバイクが何列にもなって割り込んできます。リキシャもいて、車間距離という概念は前後左右、まったく無し。パッパーッ!というクラクションがそこかしこで響き渡ります。隙間を空けないように、タクシーは急発進と急停止を繰り返します。そこに、牛がぬーっと入ってきたり、お婆さんがゆっくり横断していきます。「わーっ、あぶなーいっ!」と絶え間なく叫びながら、シートベルトの無い客席で必死に足を踏ん張っていました。まさに、スリルなどというものではなく恐怖を感じました。会場に着いても、胃がきゅーっと縮みあがっていて、せっかく出された美味しいはずのインド紅茶も飲めませんでした。
 でも、不思議なのです。このような大混乱の道路状況でありながら、交通事故は見ないのです。日本でしたら、すぐにでも衝突が起こり、車同士や人との接触事故、そして喧嘩や殴り合いにもなるのでしょう。無秩序極まりないと私の目には映るのですが、どうやらそこには絶妙の交通秩序があって、人々は毎日、このような中に自分の居場所があり、生活しているのでしょう。 宗教間の緊張もインドにはあります。教会が襲撃されたということも時々聞きます。でも、教会も信徒たちも自分たちの存在を精一杯主張しています。そこにも絶妙な秩序があるように思えます。
 あ~あ、帰りもまたホテルまで恐怖のドライブが待っているのか。やれやれ。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年4月

 今年も聖木曜日に、司祭按手式の際の誓約更新の礼拝が主教座聖堂で行われました。北海道教区は広く、遠方からの聖職はなかなか集まれないのですが、それでも、13名の司祭たちが式服を着けて祭壇前に並びました。私はこの礼拝をとても大切に思っています。それは、私も含め、司祭職に召されていることをもう一度確認し、神様の前に襟を正すと同時に、この尊い務めに召されている同労の司祭たちの存在を喜び合う時だからです。 退職司祭も五名おられ、その方々が誓約を更新されるお姿を見ながら胸に迫るものがありました。私がこの教区に遣わされてからもう21年。まだ若かった先生方は、若造の私を息子のように、弟のように支え導いてくださいました。現在のようにいろいろな面で生活が保障された我々の時とは違い、この北海道の地で、生活もままならぬ状況に置かれながらも宣教に励んでこられた時代の聖職たち。その土台あってのこの北海道教区であると改めて感じさせられます。
 そしてまたそれと同時に、現役の聖職たちにとっては、働き人の少ない現状で、ある時には体調を崩しながらも遠方の教会の管理をこなし、様々な責任を負う日々であることを思い巡らします。聖職の働きは、信徒の目には見えない、説明することも許されないことがらが多くあります。信徒一人ひとりとの関わりの中で、決して人には言えないことを自分の胸におさめ続けることは、時には苦しく、ただただ神との交わりの中で祈り求めるしかすべのないことも多々あるのです。
 私たち聖職は不完全でありながらも、主が召してくださり、ともにいてくださるということを信じ、そのことのみに希望を置く者なのです。この日の聖餐式では一緒に聖別祷を唱え、祝祷をしました。 主よ、司祭たちを守り導いてください。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年3月

 「そだねー」。ピョンチャン冬季オリンピックで、北海道勢は大活躍。女子カーリングでの選手たちの競技中の笑顔と「北海道弁」は人々の心に癒しの効果をもたらしました。
 今月22日は私が北海道に派遣されて21年目の記念日です。初めての北海道での生活は、驚きや戸惑い、また感心することばかりでした。この北海道という厳しい気候条件に根ざした、いわゆる「方言」も興味深いものでした。
 自分の意志とは反対に物事が始まったり進んだりすることはよくありますが、特に自然の厳しさの中ではそのようなことがよく起こります。こんな言葉を皆さんも使っておられるでしょうか。例えば、自分が押してもいないのに、押した状態になっていることを「押ささる」とか、自分は開けていないのに、勝手に開いてしまっているときに「開かさる」とか。自分の意志とは反対の結果が出たときに使うこのような言葉は、「仕方ないなぁ」というユーモアも含んでいるように思います。
 人生、思った通りにはいかない。そこで落ち込んでしまうか、あるいは「仕方ないなぁ、この状況。でも何とかなるさ」と別の方向を向いて気を取り直すか。北海道の人たちは、気持ちを切り替えたり、笑って行き過ごしたり、待ったり、別の道を探すのにとても優れているように思います。
 神様を信じることは、ある意味、押ささってしまったり、開かさってしまったりの自分の人生も、意味あるものとしてお委ねしていくことだと思います。
 聖週(受難週)に入ります。王として来てくださったはずのイエス様が、なんと、最も惨めな刑に処せられ、死んでいかれる週です。死という闇は、こんなはずではなかったという私たちの人生の究極。そこに、闇では終わらないという復活の命の約束であるイースターが訪れるのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年2月

 我が家では子どもたちが幼いころ、寝る前に妻がよく絵本の読み聞かせをしていました。絵本というのは内容によっては子どもだけではなく大人も考えさせられるものです。「ジオジオのかんむり」という絵本はライオンの話でした。ライオンたちの中でも最も強く勇ましいライオン「ジオジオ」は立派な冠をかぶっていました。
 勇敢で皆から一目置かれていたジオジオ。けれども、だんだんと年を取り、獲物を追いかけることもできなくなり、頭は白くなり、目も見えなくなっていきます。それまで味わったことのない孤独を感じるようになったジオジオは、誰かとゆっくり話をしたくなるのです。そこにやってきたのは卵を盗まれた親鳥でした。ジオジオは自分の冠の中に卵を産むことを提案。鳥は冠の中に卵を産み、ジオジオはそれを落とさないように、雨風にも当たらないように木の茂みに座り、そーっと守ります。
 やがて雛(ひな)が孵(かえ)り、その雛たちはジオジオのたてがみを引っ張ったりして遊びます。強さも、立派さも失っていくみじめなジオジオですが、小鳥と戯れるという、そして何かを守るという今まで考えもしなかった幸いを見出すのです。
 さて私たち人間もまた、老いや病気とともに、自分を強く支えていたものを一つまた一つと失います。健康を失うこと、親を失うこと。伴侶や子どもを失うという残酷なことも起こります。そして、何かを失うごとに、そこには優しさが芽生えていくように思います。年月という抗うことのできない営みの中で、人は大切にしてきたものを一つ一つ失いつつ、その代り、それまでは考えもしなかった、本当に大切なものを自身の身に帯びていくのではないでしょうか。失っていくもの、始めから欠けていたもの、残酷とも見えるそれらは、思い直せば、人生を真に豊かに送るための創造主から与えられた、神さまの領域ではないかと思うのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2018年1月

 私の母が昨年12月26日、94歳で天に召されました。3月には父が召され、同じ年に母が召されたということを、私たちは神様のみ旨と信じて感謝しています。
 昨年2月、母から誕生日のカードを受け取りました。「愛する息子まことへ。お誕生日おめでとうございます。パパは100歳を突き抜け、あなたは65歳で、なんと70歳に向かっているのですね。昔、私たち家族が過ごした清里聖アンデレ教会の一部屋、その部屋の中に、朝まで置いたあなたのおむつは、カチカチに凍っていました。実に可愛い可愛い、いい顔をしていた坊や、まことよ。月日はどんどん移り変わります。そして、父と子と聖霊の主は、永遠に変わることなくほめたたえられ、私たちは、ハレルヤ、アーメンと歓びあふれます」。
 昨年11月末、大阪の入院先に母を訪ねました。もうベッドに横たわったままでしたが、翌日が東京で聖徒アンデレ同胞会(BSA)の創立90周年の礼拝があり、私がそこで説教をすることを知っていた母は、私に、「BSAのモットーは使徒聖アンデレのように、『一人が一人を』イエスのもとに連れてくる、ということだけれど、それはとってもむずかしい。それよりも、毎主日、教会の礼拝に来て、十字架の前でひざまずき、ひれ伏して、涙ながらにイエス様の御体と御血をいただくことの方がもっと大事で、それで十分だと私は思う」と言いました。そして、帰り際に病床聖餐式をすると、母は陪餐しながら、「ああ、ありがたい・・・」と泣き、「みさかえは神にあれ」と歌いだしました。
 母の生前からの願いで、葬送式では家族と参列した方々が、母を囲んで、キリストの尊い聖餐に与かりました。死で終わるのではなく、復活の命に生きる私たち。何という祝福でしょう。みさかえは神にあれ。

主教 ナタナエル 植松 誠