日本聖公会北海道教区第76(定期)教区会 主教告辞

[教区会開催にあたって]
 北海道教区第76(定期)教区会のためにお集まりくださいました聖職議員、信徒代議員、教区役員、招待議員、またこの教区会のためにご奉仕くださいます書記局、食事のお世話にあたってくださる婦人会の方々、教区事務所職員の皆様に深く感謝いたします。ここにお集まりの多くの方にとって、北海道教区の教役者たち、また他教会の代表にお会いするのは、教区礼拝以外では、この教区会の時だけではないかと思います。北海道教区という広大な教区に点在するそれぞれの教会は小さな群れです。しかし、この教区会で私たちは、キリストを信じて生きる仲間たちがいることに心を強くされます。私はいつも繰り返して申しますが、教区礼拝、教区会、信徒修養会などに集まること自体、私たちが北海道教区においてキリストを信ずる群れであり家族であることを世界に証ししていることだと思います。主なる神様がこの教区会を豊かに祝福してくださいますように、そして、この教区会を通して、イエス・キリストを主と信ずる北海道教区の家族の絆がますます強められ、共に担う宣教への新たな力と希望が与えられますようにと祈ります。

[人事]
 人事について申し上げます。今年3月、上平更聖職候補生が聖公会神学院を卒業され、4月から新札幌聖ニコラス教会に派遣されています。7月には永谷亮執事が司祭に按手されたことは大きな喜びでした。定年退職された後も、嘱託司祭として、また協力司祭として、複数の教会を掛け持ちでお働きくださっている甲斐博邦司祭、藤井八郎司祭、内海信武司祭、大友正幸司祭に深く感謝いたします。また、それ以外にも、いくつもの教会で、主日礼拝の奉仕などをいただいている退職聖職の方々もいらっしゃいます。この場をお借りして感謝申し上げます。李香男(イ・ヒャンナム)司祭は今月末をもちまして北海道教区を離任し、米国聖公会ロス・アンジェルス教区のロドンドビーチ・キリスト教会に赴任します。李司祭は2008年2月、大韓聖公会大田(テジョン)教区から北海道教区に来られ、その後、2014年には聖職籍を大田教区から北海道教区に移籍し、名実ともに、私たち北海道教区の一員として、宣教・牧会に従事してこられました。これまでの9年9か月にわたるお働きを感謝し、新任地であるロス・アンジェルスの教会でのご活躍を祈ります。石坂みゑ子司祭は、来年3月末で定年となられます。石坂司祭は2013年4月、東京教区から北海道教区に来られ、5年間をお勤めくださいました。心から感謝いたします。
 毎年、教区会の度に申し上げることですが、北海道教区では教役者が足りません。今日現在で、現役教役者の数は、主教1名、司祭12名、聖職候補生2名となっています。この中から、今月末に一人、来年3月末でもう一人が減りますと、現役司祭は10名になってしまいます。また、今後5年で、私を含めて3名が定年を迎えます。北海道教区には23の教会と10か所の関連施設がありますが、このように少ない教役者で広大な教区を牧会・宣教するのは一層困難となります。現在、既にほとんどの司祭が、いくつもの教会の牧師また管理牧師、施設の園長、チャプレンの任にあたっていますが、定住牧師のいない教会はますます増えますし、日曜日の礼拝、日常の教会の宣教・牧会にも支障をきたすことが多くなるでしょう。教役者たちの過重な責務は、心身の健康に影響を与えていることも憂慮しています。聖職を養成するのには最低でも5、6年はかかります。北海道教区神学生は、現在のところだれもいませんが、今年4月に聖職候補生志願者として認可された三浦千晴さんが、許されれば、来年4月から神学校に行く予定になっているのは喜ばしいことです。これからも聖職への献身者が興されますように、皆様の篤い祈りをお願いするとともに、そのような人を探し、育て、聖職になるようにお勧めいただくことはこの教区の一人一人の急務です。

[宣教]
  一昨年から、教区の宣教を話し合うための教役者宣教ミーティングが4回開かれました。それは2012年秋に静岡県浜名湖畔で開かれた日本聖公会宣教協議会の提言に基づいて、北海道教区としての宣教の課題を話し合い、その中から実行可能ですぐにでも取り掛かるべきものを選ぶためのものでした。その結果を宣教活動推進部とも協議しながら、第一次として以下のような六つの優先着手課題が決められました。①入院信徒へのミニストリー、②エンディングノートの作成、③ミッションステートメントの明確化、④洗礼・堅信のテキスト、信徒生活ハンドブック作成、⑤講壇交換、⑥インターネット会議です。そられはそれぞれに担当するチームが作られて、作業に入っています。各教会のミッションステートメントは、まずはそれぞれの教会の宣教の夢、ビジョンのような形から始められ、一枚のポスターとなって発表されました。講壇交換も、6月25日、「出会いと交わりの日」として、教区を挙げてすべての教会で行われました。今後、教会の宣教の夢がどのように実現されていくかは、それぞれの教会の主体性の中で、いつも意識化しながら進めていく必要があります。また、講壇交換は、来年度も実施してほしいとの要望がたくさんあります。またこれら以外の課題の中には、始めてみたものの、実行可能と思われたものが、かなり難しい作業で、なかなかはかどっていないものもあります。しかし、それらの課題の困難さが認識できたことも大きな収穫であったと思います。実際に取り組んでみて初めて分かることも多いのです。今後、路線の修正も柔軟に考えながら進めていただきたいと願っています。北海道教区の聖職・信徒にとって、これらが宣教に向かう大事な一歩となることを信じて、これらの課題のために祈り、ご協力くださいますようお願いいたします。これら、宣教の課題の明確化と実行の取り組みの背景には、北海道教区は信徒の減少と高齢化、聖職者の不足、教会建物の老朽化、財政の逼迫など多くの課題に直面しているという現状があります。何とかしなくてはと思いながら、私たちはいろいろ考え、取り組んできましたが、それらが効果的な宣教の結果を生み出していないという現実に私たちは直面してきました。今までも、宣教の掛け声だけは響くのですが、誰がどのように宣教をするのか、或いは、そもそも宣教とは何なのかということに私たちは明確な答えを見いだせないでいたと思います。そして、その問題をさらに突き詰めていくと、いったい私たちはどのような信仰者であるのかというところまで問われていきます。私にとって信仰とは、福音とは、教会とは、礼拝とは、献金とは何なのか。はたして私は信仰を生きるという喜びや感謝の中にいるのか。そのような自分の在り方を脇に置いて宣教を考えても論じても、それはあまり意味のないことだと思います。宣教とは私たちの生き方そのものです。宣教を論じたり方策を立てる前に、私はどのような信仰を生きているのか、なぜ私にとって教会が必要なのか、教会とはどのようなところなのか思いめぐらせることを大事にしたい。宣教とは私たちの生命そのものであり、私たちが生きているということであると私は思います。宣教とは自分の信仰を見つめることから始まると申し上げました。これまで、教区の宣教課題を考える上で、教役者宣教ミーティングでは、このことを大事にしてきたかを私は今反省しています。課題を決めて実行していくこと、それはそれで大事です。それと同時に、自分の信仰者としての生き方を見つめ、自分が神様の愛の中で生かされていることを喜べるようになること、これも私たちにとって大事だと思います。私たちは皆、神様から召命を受けています。一人ひとり、他の人とは異なった賜物をいただいて、それを生かすように召されています。聖職としての召命があり、また信徒には信徒としての召し出しがあります。私たちにとって大事なのは、その召命がどのようなものかを見極めることです。私の信仰はどのようなものであるか、私は何を求めているのか、私にとって何が大事なのか、神様は私にどのような使命を与えていらっしゃるのか、私は今何をすべきなのか。それらはまさに自分の今をどのように生きるかという問いかけなのです。自分が聖職者に召されていると思いながらも、そこには常に恐れと不安があります。私のような者が・・・という自分の弱さと不完全さを知っているからです。自分のような者が、神の言葉を語り、サクラメントを執行し、神の民を整えるということ、そのことで聖職者は悩みます。そしてその恐れと不安は一生続きます。信徒の場合もそうだと思います。信仰とは何か、私の信仰は本物か、このような信仰でいいのかなどと。そのような中で、宣教の課題に取り組むなどと言われると、私たちは身構えてしまうのではないでしょうか。この新しい教区会期、私は、既に挙げられた宣教課題への取り組みを続けながらも、神に召された私たち一人ひとりの生き方にも焦点を当てていければと願っています。信仰者として聖職であれ信徒であれ、神に召された自分の生きざまを見つめ、それと向き合うこと、そして、そこから生じる恐れと不安を持ちながらも、それゆえに謙虚になって、神様の約束である豊かな聖霊のお導きに自分を委ねていくことを学びたいのです。それはまた、それぞれの召命の生き方を互いに認め合い、共鳴し合い、励まし合い、祝福し合うことに繋がっていきます。私たちは弱い、また小さな器です。その中に神様の与えてくださる大きな可能性を秘めています。自分の召命だけにとどまらず、周りの人に、また同労者に与えられている召命を喜び合うところから、私たちは宣教への情熱と力を与えられていくのではないかと思います。またそのような中から、私も聖職になりたいという人が出てくるのではないでしょうか。この一年間、私は教区内外のいろいろな集会に招かれて宣教について話をする機会がありました。そこで私がいつも申し上げることは、宣教とは、第一義的には、自分の信仰の証しです。何か行事やイベントをすることではなく、また何かの運動でもありません。エマオ途上で復活の主に出逢った弟子たちが、エルサレムの教会に飛んで帰って、その一部始終をほかの弟子たちに語ったように、福音を生きる、生きようとしている自分のことを、喜びも、悲しみも、迷いをも証しすること、そして、まずその分かち合いの場が教会だと思います。この教区会期に、それぞれの、また周りの人々の召命や信仰者としての生き方を思い遣り、感謝するような機会が教区的にまたそれぞれの教会で行われることを願っています。

[おわりに]
 この一年間も、私は日本聖公会首座主教の任を負ってきました。また今年7月から今月の30日までは東北教区の管理主教の任にもあたってまいりました。毎週のように、東京はじめ日本各地に、仙台に、また時には海外に出かけることとなり、北海道教区の教区主教の働きを十分果たせなかったことを申し訳なく思います。ただそのような中で、皆様が私の健康を気遣い、祈り続けてくださっていること、また私に代わって様々な働きをしてくださっていることを心より感謝いたします。皆様に祈られていること、支えられていることによって、私はいつも力と 勇気を与えられています。
 これからの一年間、北海道教区、聖職・信徒の皆様が、主の御手の中で守られ、導かれ、豊かに祝福されますように。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年11月

 朝日新聞の「天声人語」に、興味深い文章が載りました。外来種のカミツキガメを駆除し生態系を守るという仕事についておられるカメ専門の県庁職員の方の話です。子どもの頃からカメ好きで飼育してこられたが、生態系に影響が出るほど外来種が繁殖する以上、駆除は必要であると。カミツキガメはもともと米大陸が原産でペットから何らかの理由で野生化。人が手を伸ばすと噛みつこうとするのでこの名がついたとか。漁網を破ったり水田に入ったりと、甚だ迷惑な生き物。世界で最も獰猛なカメと言われるが、その職員さんのおっしゃるには、むやみに人を襲ったりはしない。ただ、他のカメと違って甲羅が小さく、危険を察知しても頭や手足を収容できないので、代わりに口や爪で身を守ろうとするとのこと。確かに私も、カミツキガメはよくテレビなどでも見ましたし、名前の通り、やたらに噛み付いてくる尖がった顔は可愛げがなく、他のカメのように愛着は持てません。でもその職員さんの、甲羅が小さく、怖いことがあっても身を隠すことができずに噛みつくしかない・・・という、その温かいまなざしに、なんだかカミツキガメに親近感を覚えるのです。
 私たち人間も、誰しもが大きな器でいたい、何があっても、どんなに非難されても、悠々と構えている大きな人間でいたい。しかしながら人間の小ささに、器の小ささに、ある時は人に噛みつき、ある時は逃げ出し・・・、そのような自分にふがいなさも感じるのです。でも、その足りなさを温かい目で見てくださる方がおられるなら、そのまなざしの中で生きていけるようにも思うのです。
 今度、カミツキガメに出会ったら、きっと声をかけるでしょう。「お前もたいへんだよなぁ、器が小さくて・・・」と。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年10月

 8月の最後の日曜日、恒例の道北分区(旭川聖マルコ教会、深川聖三一教会、留萌キリスト教会、稚内聖公会)合同礼拝が稚内でありました。その前日に豊富温泉でのプログラムがあり、主教の講話を聴き、語り合い、祈り、歌い、夕食を共にし、温泉に入ってそれぞれ楽しいひとときを過ごしました。
 主日の聖餐式は稚内聖公会で捧げられました。日本聖公会の最北端の教会。冬の巡回ではそのことをしみじみと感じさせられます。吹雪でJRが動かなくなることもありました。今の状況は、現在堅信受領者がお二人。いろいろなご事情で、礼拝にお出でになれないこともあります。それでも、管理牧師は旭川からの遠い道のりを、時には数人の信徒とともに来られます。13回目を迎えたこの合同礼拝も、これからどうしましょうか・・・という話題になります。お二人の信徒に気持ちの負担がかからないだろうか・・・という心配も皆さんおありです。当の信徒の方たちも、こんなところまで皆さんに来ていただくのは大変だろうと心を砕きます。
 その話し合いの中で、でも、やっぱりこの稚内聖公会に来て、礼拝を一緒にお捧げしたいという思いが湧き上がるのでした。北の果て、少ない信徒・・・。そのネガティブな状況の中、私は思うのです。「でも、ここでイエス様が待っておられる」と。この聖別された古い礼拝堂。染み付いた先人たちの祈り。いつか壊さなければならない日が来るかもしれないこの礼拝堂であっても、今ここは祈りに満ちていて、イエス様が待っておられる。年に一度、こうしてこの礼拝堂に集まることは、決して少ない信徒のため、北の果てなる教会のためだけではなく、私たち一人一人が、イエス様に出会うために来るのだ・・・と。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年9月

 私には36歳になる息子がいます。彼が丁度高校に入学する時、私たちは札幌に引っ越してきました。彼の高校また大学時代は、私は息子となかなか良い関係を築くことができず、深い葛藤の中で過ごしました。それは彼にとっても同じであったと思います。幼児洗礼を受けていた彼は、堅信式は受けないと言って、教会の礼拝に出ることもありませんでした。そして大学を終え、スイスで時計職人になりたいという夢を持って、そのためのフランス語の勉強をすべく、今から11年前にフランスに渡りました。
 彼がフランス行きの準備をしていた時、私の父から突然彼宛に速達が届きました。彼が開封した後、私はこっそりその手紙を読みました。
 「フランシス純君へ。貴兄のフランス行きがいよいよ具体化し、さらには旅程の細部に至るまでの段取りもすべて自分で調(ととの)えられたことを知り、心から嬉しく喜んでおります。いよいよ出発ですね。まずは一番大切なパスポートをイエス様にお願い致しましょう。『フランシス植松純(同行者インマヌエル・イエス)』。ああ、この手形があれば万事心配無用。手続きは堅信式と陪餐。ミサに陪(あずか)り『同行者インマヌエル・イエス』の手形をものにし、さあ、これで準備完了。出発。どこで何を学ぼうと、『同行二人』の研鑽は豊かに成長し、確実に実を結びます。なお、このパスポートは世界中のあらゆる教会・集会・人々に通用します。祖父アブラハム」
 彼は、これを読み、当時札幌キリスト教会牧師であった大友司祭に、堅信式を受けたいと申し出たのでした。
 それから11年、時計職人となった彼は、素晴らしい伴侶を与えられ、今月、スイスで結婚式を挙げることになり、私にその司式をしてほしいと頼んできました。「同行者インマヌエル・イエス」のパスポートは、今も彼と共にあります。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年8月

 朝日新聞の「声」の欄に、沖縄出身の大学生(福岡在住)の思いが載りました。彼女の地元沖縄では「ぬちぐすい」という言葉があること。「ぬち」は命、「ぐすい」は薬の意味で、食べものや景色、音楽、言葉など、食したり触れたりしたときに、心を癒して気持ちを元気にしてくれるものに対して使う言葉なのだそうです。この大学生は地元を離れ、念願の一人暮らしを始め、これまた楽しみであった料理にも精を出したそうですが、独りの食事のあまりの味気なさに、家族や友だちとおいしさを分かち合い、顔を見合わせながら食べることが何よりの「ぬちぐすい」だと気付いたとのことでした。
 これを読みながら、「ぬちぐすい」・・・、この言葉は、私たちが大切にしている聖餐式そのものだと思いました。信徒も聖職もそれぞれ過ごした日々を背負ってみ前に集い、祈り、懺悔し、主の食卓を囲み、ご聖体をいただきます。1週間、あるいは1ヶ月、みんないろいろ大変でしたね・・・と、お互いに言葉に出さなくても労(ねぎら)い合い、無事を感謝し、新しく始まる日々にみ守りと祝福を祈る、そのひととき。ともにいただくキリストの御体と御血によって養われた私たちは、改めて重荷を背負う力を与えられ、歩き出します。どんなに辛い道であっても、そう、またあの究極の「ぬちぐすい」に養われるのだと励ましながら。
 この投書の最後はこういう言葉で締めくくられていました。「あなたの“ぬちぐすい”はなんですか」と。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年7月

 私が北海道教区の主教に就任したときには、まだ幼い子どもであった人が、今や立派な社会人。20年の歳月の長さをつくづく感じます。そのような信徒からの手紙を今日は紹介したいと思います。彼女が「奇跡」と呼ぶ出来事を。
 彼女(Iさん)は今年2月、休暇を取って北欧に独り旅をしました。自由気ままに各地を巡り歩き、バルト三国のエストニアの首都タリンに着きました。ここからは、Iさんのお手紙を引用します。
 ホテルで朝起きて朝食をとり、観光スタート。いつものようにカメラ片手に旧市街地巡り。鐘がゴォーン、ゴォーンと鳴り響き、足が勝手にその音の聞こえる方に。教会・・・。なんと今日は日曜日。礼拝の日でした。
 「あー、私は今、おじいちゃんに守られている」。忘れていた教会のことを思い出しました。小さい頃から手を引っぱられて、日曜日はいつも教会に行っていたこと。鐘の音とともに礼拝が始まり、その時間は子どもにとっては長くて長くて・・・、早く礼拝が終わらないかとばかり考えていました。でも、その時はいつも横にはおじいちゃんが居てくれた。それが普通でした。
 この日、タリンの中世からの古い教会での礼拝、それは久しぶりにおじいちゃんとの再会の時でもありました。おじいちゃんと一緒に礼拝ができたことで、私は幸せで幸せで、この日の出来事は私の一生の宝物になりました。本当に奇跡の一日でした。それをお伝えしたくて、主教さんにこの手街を書きました。(以上、引用終わり)
 Iさんのおじい様は4年前に天に召されました。熱心な信徒でした。Iさんのお手紙を読みながら、おじい様が今も天国で祈っていてくださること、そしてIさんの傍らに今も一緒にいらっしゃることを思いました。Iさん、ありがとう!
 そしてこの奇跡のゆえに主に感謝。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年6月


全く知りませんでした・・・。きっと私や妻にわからないように苦労して準備してくださったのでしょう。教区礼拝の最後、祭壇のろうそくが消えてから、恒例となったハレルヤコーラスを歌うため、私たち教役者も礼拝堂に戻りました。そのとき、私は会衆の前に出るように言われ、妻も呼ばれました。予め配られていたらしい印刷物を見ながら、聖歌476番「暗闇行く時には」が全員で歌われました。この聖歌には私にとっての特別な思いがあることを巡回先での説教でもお話したことがあり、多くの方がそのことをご存知でした。一緒に歌いながら、皆さんが私の主教按手20周年を記念して祝ってくださっていることがわかり、いろいろな思いやたくさんの方々の顔が走馬灯のように浮かび、胸が熱くなり、涙があふれました。
 この20年間、私にとってはやはり重責ではあったものの、聖職信徒の方々とともに喜んだり、悲しんだり、笑ったり、泣いたり・・・、一人ひとりの信仰の旅路に添わせていただいたこと、それは計り知れないお恵みだったと改めて思います。私の後ろには、20年よりも遥かに長く、深く、この北海道教区のために働いてこられた聖職信徒の方々のお祈りとお支えがあり、そのまた後ろには天に召された方々、そして、いつもしんがりを守り、押し出してくださった神様の大きなみ手を感じるのです。
 配られた印刷物には、こんなことが書かれていました。「3番を歌い終えたら、子どもが主教様に花束を渡します。その時全員で『主教様、主教按手20周年おめでとうございます!』と大きな声で言います!」。本当に北海道らしい、優しさと温かさ、そして愛に満ちたお祝いに、胸がいっぱいになった教区礼拝でした。
 皆さまに感謝! そして主に感謝!

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年5月

 先日教区で発行されたポスター「わたしたちの教会の夢」。一つひとつじっくり、それぞれの教会の「夢」を読んでいますと、23の教会それぞれの牧師・信徒のお顔が浮かびます。「夢」ですから、必ずしも実現できるとは言えないでしょう。でもそれら一つひとつの言葉には決して綺麗事では終わらない、何か本当に決意のようなものを感じます。定住牧師のいない教会、信徒が数人の教会もあります。数人であっても何十人であっても、その内の一人が、この夢のために1日にたった10分でも早起きして祈るならば、そしてそれを自分の使命とするならば、そこに聖霊の働きが注がれないはずはありません。
 夢を実現させるためにはまず1歩踏み出さなければならないでしょう。「祈り合う教会」が夢であるならば、まず自分自身が誰かのために全身全霊で祈ること。それは夢に向かって進むために与えられる私たちの使命でもあります。祈りによって、主のみ名を唱えて、神さまからの大いなる力を信じて・・・。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」コリントⅡ4:18
 自分たちの教会の夢だけではなく、同じ分区の教会の夢のためにも1歩踏み出すことができるでしょうか。遠い教会であっても、もし知り合いがいる教会であれば、そのためにも心を砕いて祈ることができるでしょうか。私は、このポスターに書かれた夢のような「夢」が、私たち一人ひとりの祈りによって実現されていく様を想像し、わくわくするのです。北海道という一つの大地。そこに立つ23の教会。その信徒一人ひとりに与えられた大きな使命が、永遠に存続する、見えない力を生み出す原動力になると思うのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年4月

 私の父が3月7日、100歳3か月で、天に召されました。私はその前日から京都での諸宗教の集まりのために大阪に行っていましたので、亡くなる前の晩もその日の朝も、父に会い、そこで家族一緒に祈り、父への最後の祝福を祈ることもできました。静かで穏やかな最期でした。
 今から8年ほど前、両親を訪ねた時、父が私に渡すものがあるということで、父の前に正座しました。父は机の引き出しの奥から、何やら小さなものを取り出して私の手にそれを載せました。手のひらで包んでしまえるほど小さな小さな本でした。「なに、これ?」と聞く私に、「兵隊に行った時に持っていった祈祷書だ」と。硬い表紙のミニ本は英語の祈祷書でした。水に濡れ、インクの染みがあります。父は1939(昭和14)年、神学校を卒業したあと、北京中華聖公会に赴任し、その後徴兵され、中国戦線に。終戦まで何度か応召しました。
 戦地に持っていけるのは背嚢に入るものだけ。私物は限られているし、厳しい検閲があります。この祈祷書が、しかも英語のものが、どうして検閲をとおったのか不思議ですが、(たぶん、日本語の祈祷書は大きすぎたのでしょう)、この本の表紙裏に、検閲官の許可印が押してあります。特別な計らいだったと思われます。この祈祷書を用いて、父は、戦地で早祷、晩祷を捧げていたのでしょう。戦後、父の戦友が我が家を訪ねてきた時、私たち兄弟に、「あなたたちのお父さんはキリスト教だったから、毎晩のように上官から制裁をくっていた」と話したことがあります。そのような中でも、決して身から離さなかった祈祷書だったのでしょう。
 父から私に渡されたミニ祈祷書。信仰は命に勝るものだという遺言がそこにあるように思います。 

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年3月

 本州に住んでいた時、この時期になると決まって花粉症で苦しみました。目の痒み、鼻づまり、鼻水、くしゃみの連発、時には微熱も出る始末。肌身離さず持っていたのはアレルギー性鼻炎のためのスプレー。春たけなわになると、テレビではニホンザルまでが花粉症になったというニュースが流れ、赤い顔のニホンザルがそれ以上に真っ赤な涙目をして、なんとも哀れな顔で鼻水を流しているのを、我が身に合わせて可哀想に思ったものでした。
 アレルギーというのは本当にやっかいなものです。薬を飲めば眠くなり、何とも言えない倦怠感。聖餐式の説教中であろうと、聖別中であろうと所構わず出るくしゃみ・・・。北海道に来てからそれらがほとんど出なくなり、本当にありがたいことでした。スギ花粉がないからでしょうか。
 アレルギーに関して、「回虫が消えたからアレルギー性疾患が増えた」という、おもしろい一説があります。有史以前から人と共生してきた回虫は人に悪さをするのではなく、自分が生きるために栄養を少し横取りさせてもらう人には元気でいてもらわないといけないので、アレルギーにも癌にもなりにくい体に変化させる・・・というものです。その真偽の程はわかりませんが、確かに私たち人間は自分にとって都合の悪そうに見えるものをことごとく排除してきました。それは現代も益々バージョンアップして続いていると思います。排泄物、匂い、虫・・・。それら、不快とするものをすべて排除してきたが故に、もしかしたら人間の体自体が大切なものを受け入れられなくなってきた・・・と、そのようにも思います。今更回虫と共存というわけにもいきませんが、神様がお創りなったものすべて、そして何よりも、この世の人すべてがお互いに大切な存在として排除しない世の中になって欲しいと願います。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年2月


 先日、姉の嫁ぎ先の父が亡くなり、葬儀のため兵庫県の芦屋まで行ってきました。その教会は私が執事として初めて遣わされ、3年半を過ごした懐かしいところでした。召されたHさんは95歳。ご夫妻で私が赴任した時からずっと親のように私と家族の面倒をみてくださった方でした。葬送式の説教は、私がその教会にいた時の主任牧師。もう89才になられる司祭で、説教壇に上がられると、昔と変わらないお声で話され、懐かしさで胸がいっぱいになりました。
 「わたしは 福音を恥としない」(ローマ1:16)というパウロの言葉を紹介し、「Hさんの生きざまは、正に、福音を恥としない・・・そのみ言葉に尽きる」と。本当にそうだったと思い返しました。福音を恥としない生き方・・・、それゆえに厳しいことをおっしゃることもありましたが、いつもその根底にあるのは「慈愛」だったと改めて思います。
 葬儀は、別れの悲しみはあるものの、親しかった人々との再会の喜びの場ともなります。今回は普段滅多に会えない親戚たちにも会う機会となりました。私がその教会を出てから30年。若い私を支え育ててくださった信徒の方々の多くが亡くなられましたが、それでも、何年ぶり、何十年ぶりかで会う方々との再会は温かく、楽しいものでした。私たちの国籍は天にある・・・。葬儀に関わるといつもそう思います。それゆえに、私たちはどんな状況になっても希望を失わず、おののきつつ喜び躍るものとなりたい。願わくば、福音を恥としない生き方・・・、その生き方に徹すること、それ以上に、福音の恥とならないようにと、冷たい神戸の雪に降られながら思いました。献花の時の「ハレルヤ、主に感謝します」という夫人の声が今も耳に残っています。

主教 ナタナエル 植松 誠

2017年1月

 新年おめでとうございます。今年は元旦がちょうど主日でしたから、教会に初詣でして礼拝に与かり一年が始まったのではないでしょうか。しかもその元旦は「主イエス命名の日」であり、イエス(神は救い)とインマヌエル(神、我らと共にいます)という名をしっかりと心にとめて私たちは歩み出しました。
 昔、私が幼いころから大人になるまで、父は私たち兄弟が何か特別な用事で出かけるとき(遠足、キャンプ、修学旅行など)、決まって私たちに玄関先で手を按(お)いて祝福の祈りをしたものです。ある時期、それが素直に受け入れられずに、黙ってそっと裏口から出て行ったこともありました。私が司祭、主教になっても、海外に出るときなど、空港から両親宅に電話をすると、父は電話口で祝祷をしてくれたものです。 だんだん父も年をとり、「父と子と聖霊の・・・」というような祝祷はできなくなりましたが、それでも、「イエスさまが一緒だよ、一緒だからね」などという言葉での祝福は続き、それもできなくなると、私の手をとって、ただ、にこーっと微笑むかたちの「祝福」に変わりました。昨年12月、百歳になった父は、もう私のことも分からないようで、そのような祝福さえも無理になりました。老人ホームのショートステイに入っていた父を、昨年訪ねる機会がありました。黙って座っている父の手を私も黙って20分くらい握っていましたが、最後に、父の頭に私は手を按いて、祝祷を唱えました。「パパ、インマヌエルだよ、イエスさまが一緒だよ」と。

主教 ナタナエル 植松 誠