2015年11月

 東日本大震災の前年二〇一〇年七月、東北教区宣教開始百二十年を翌年に控えて東北教区の修養会が福島県の岳温泉で開かれ、私は発題者とし招かれました。その時、集まった教会の信徒の方々が自分の教会の宣教について話しましたが、福島県郡山の聖ペテロ聖パウロ教会の方は、教会の庭をイングリッシュガーデンにして花や木々を植え、地域の人々の憩いの場を提供しているからぜひ見に来てほしいと話してくださいました。
 先月主教会が郡山の教会でありました。そのイングリッシュガーデンは、今や放射能の除染のため、コンクリートで塗り固められていて、私の心は押し潰されそうでした。教会のそばにはセント・ポール幼稚園がありますが、ここでは今も毎日、先生たちが除染作業をし、園児たちは放射線被ばく量を測る機器を首から下げて登園しています。
 主教会の最終日は朝から一日、福島第一原発事故の被災地をまわりました。居住制限区域では、除染の作業員とダンプカーばかりで、住民の姿はほとんど見られませんでした。原発の近くの大熊町や双葉町は今も帰宅困難地域で、そこには私たちは入ることを許されません。そこを通る国道6号線は車の通行はできますが、窓は閉め、外気は入らないようにし、途中止まることは禁止されています。人気(ひとけ)のないゴーストタウンのような町を見ながら走る車の中では、放射線測定器が警報音を発し続けています。瞬間的には8マイクロシーベルトにもなります。仮設住宅にお住いの被災者たちは、このような状況で、原発再稼働がどうしてできるのかと政府への不信を語っておられました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年10月

 先日、北海道教区のO司祭ご夫妻の金婚(結婚50周年)記念礼拝が札幌キリスト教会で捧げられました。私も聖職になって34年になり、聖婚式の司式は何組もしましたが、金婚の感謝礼拝の司式をしたのは初めてでした。式の中で、旧約聖書続編トビト記から「どうか、わたしとこのひとを憐れみ、わたしたちが共に年老いていくことができるようにしてください」という箇所が読まれ、また「ふたりが助け合って恵みの道を歩み、ともに生きる喜びを、次の世代に伝えることができますように」という祈りがあります。
 それぞれ全く違った場所で生まれ、全く別の環境で育ち、そして不思議なお導きによって引き合わされ、生活を共にしてきた50年。決して一言(ひとこと)では語れないお二人の歩んでこられた道を想像し、そして何よりも、聖職として召し出された生涯を共に分かちあってこられたお二人を前にして、心が揺さぶられました。私たち聖職は、キリストに倣(なら)う者でありながらも、人間としての弱さを嫌(いや)というほど負っており、その重圧に押しつぶされることもしばしばあります。その弱さを、伴侶という存在がともに経験し、担ってくれること・・・。 それは、二人が同じ信仰に立ち、同じ主に向かって希望をもって歩んでいることに他なりません。
 O司祭ご夫妻、どのような時も主を見上げて歩んでこられたこの50年の道に、子どもさんたちをはじめ、多くの人々が関わってこられ、そしてこの多くの人々が今後さらに同じ主に向かって信仰の道を継承していくようにと希望しながら、私は深い感動のうちに式を終えました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年9月

 9月3日、第36回北海道教区婦人会総会が終りました。道内から100名近い会員が集まり、ともに祈り、懐かしい話に花を咲かせ、交わりの時を持つというのはこのような集いに加えられる大きな祝福です。そして今回、いつもと少し違ったことは、みんなが心をひとつにして、切に平和を願い、それを何らかの形で婦人会として表明したいという思いに至ったことでした。安保法制論議が国会で進められているこの時期、集った一人ひとり、それぞれの立場での思いは違っても、誰一人として平和を願わない者はいないのです。その思いを一歩進ませて、婦人会の一員としての自覚の上にそれを再確認したいとの思いの結集であったかと思います。
 女性としての命を育む特性、命を愛おしみ憐れむ賜物、ひとを思いやり労わる天性・・・。それら特に女性に与えられる神様からの大いなる祝福を平和の基とし、武力で武力に対せず、優しさと愛おしみをもって手を伸べ、お互いの命を守ること・・・。今日の婦人会で、それらの願いがうねりとなって皆の気持ちを一つにしたように私には感じられました。
 私たちは知っています。敗北に見えたキリストの十字架が実はすべての人間に永遠の命を与える基となったこと。そして、「あなたがたに平和があるように」と何度も何度も告げられたキリストの言葉は、極限まで私たち人間を愛された神の愛に倣って、私たちがお互いを生かし守るようにとの願いであることを。
 戦争の影が形を変えて忍び寄るこの時、この婦人会総会で女性たちの平和への切なる願いと祈りを聞き、私自身改めて全身全霊を尽くして平和を守りたいと願ったのでした。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年8月

 先月、北海道教区の保育園・幼稚園職員の研修会が紋別でありました。新任の教職員が理事長訓話を聞くという分科会もあり、理事長である私が八人ほどの若い方々に、キリスト教、またキリスト教保育についてお話しをしました。クリスチャンでない方がキリスト教の施設に就職するのは、かなり勇気が要ることだったようで、祈りとか「神様」などということに戸惑っていると正直に話してくれた方もありました。
 限られた時間の中、私は、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)ということを中心にお話ししました。
 神様の目には、私たち一人ひとりが高価で貴い存在として映っているということは私たちに大きな励ましと喜びを与えてくれます。私たちは偶然にこの世界に存在するのではなく、かけがえのない価値を神様から与えられた貴い、世界にただ一人の「自分」だと考えたことがおありでしょうか。現在、私たちの周りには、自分がなぜこの世に生きているのかわからないとか、自分には何の価値もないと思い込んでいる人があまりにも多くいることに愕然とします。自分が価高いものとして神様によって創造されたことを知らず、自分を好きになれず、自分を嫌っている人があまりにも多いのです。そして、それは幼い子どもたちにまで及んでいます。
 自分は、人の目にはどのように映っていても、神様には価高いものとされて愛されていること、その「自分」を大事に生きることが、自分にとっても周りの人にとっても何よりも大切なのだということを、私は新任の方々にわかっていただきたかったのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年7月

 先日、巡回の帰りに、家内と一緒に信徒の方をお訪ねしました。もうご高齢で 施設に入っておられ、その日もずっと横になっておられるご様子でした。視力も弱くなっているようで、最初は私であることもおわかりにならないようでした が、お話している間に気づ いて、「あらっ、主教さまですか? わぁ、主教さま っ!」と驚かれ、大喜びして手を握ってくださいました。
 しばらく教会のことなどを話し、そろそろ失礼しようと、最後、いつものようにお祈りをし、祝祷をしたところ、その方はそのままご自分でお祈 りを続け、「こんな私のところにまで主教さまをお送 りくださり、イエスさま、 本当にありがとうございま す。イエスさま、どうぞ 主教さまをお守りください・・・」と涙を流しながら祈ってくださったのでし た。
 私は聖職ですから、信徒 のために傍で祈ることは多くあっても、その場で信徒に祈っていただくということはなかなか無いことなの です。こんなふうに祈ってくださったこの高齢のご婦人の前に心が震えました。 私も妻も涙で何も返す言葉がなく、ただただ手を握って帰ってきました。
 自分の・・・こんな自分の存在が、なんのためらいもなく喜ばれていること、 祈られていること・・・。 目には見えないけれど、信徒の方たちのこのような善 意の、そして強い信仰の力 に支えられながら、不完全な自分が聖職として、主教として立たされていることに思いを致し、神のみ前に謙遜にならざるを得ないことを改めて心に刻んだ一日でした。
主教 ナタナエル 植松 誠

2015年6月

 この春も教区会館の庭で採れる蕗の薹に始まり、いろいろな方からも山菜をいただき楽しみました。しどけ、うど、こごみ、行 者にんにく、エゾエンゴサクのおひたしに至るまで、本州にいた時はなかなか味わえなかったものばかりです。山菜を食べていると何か春の力というのか、勢いを体に摂り入れているように感じます。五感がともに奮い立つような、大地の力とでも言うのでしょうか。植物が芽を出す時のエネルギーや栄養素は素晴らしいのだそうで、それを私たちもお裾分けしてもらっているのでしょう。長く厳しい冬の間、じっと雪に覆われた地面の中や、寒風にさらされる木の幹や枝の中で春を待ちわび、日差しの暖かさを感じ取った途端に芽を吹き出し始めます。
 春の山菜談議に花を咲かせるのは北海道の教会ならではの楽しみでしょうか。厳しい気候の中でこそ与えられる大地の恵みは、何かこの地の人々にも相通じる特別な賜物のようにも思えます。
 冬の厳しさを和らげるために住宅環境も何もかも良くなってしまった現代ですが、その賜物を失わないで生きていってほしいと願います。得るものばかりに目が行って、耐えることに価値が見出せなくなってしまったら、おおらかさという大切なものを失ってしまうように思えてなりません。
 北海道の昔の宣教師の方々、牧師さんたちが、貧しく、厳しい気候にもめげずに宣教に励んでこられたことを改めて思い起こしますと、そういう中でこそ、神様からの力、勢いを与えられていたのだろうと、羨ましくさえ思うのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年5月

 今年六月末から七月にかけて開かれる米国聖公会総会への招待状が届きました。今回の総会では首座主教の改選が行われます。先週、現首座主教のキャサリン・ジェファーツ・ショリ大主教から、総会の前に行われる次期首座主教候補者の演説会にも参加してほしいとの要請がありました。
 米国聖公会では総会で行なわれる首座主教選挙でも、教区会での教区主教選挙でも、前もって候補者が何人か立てられ、選挙の日まで、各地で演説会や討論会などが開かれます。候補者はマニフェストを作り、「自分が主教になったらあれをします。これをします」というアピールをします。また、いろいろな教会にも招かれ、与えられたテーマで説教や講演もします。不遜な言い方かもしれませんが、自分は主教となるのに相応しいと主張するのです。
 確かに私の知っている米国聖公会の主教たちは政治的、実務的手腕にたけ、学者も多くいます。
 先月、大阪教区で主教按手式があり、大阪でのかつての同労者あった磯晴久司祭が主教に聖別されました。日本聖公会の主教選出のシステムは米国聖公会とは違い、前もって候補者が選挙運動をすることはありません。その結果、全く予想もしていなかった自分が選ばれてしまうということになります。マニフェストもビジョンも無いところでいきなり選ばれてしまいます。主教に聖別された以上、自分の弱さと限界を見つめながらも主教はその任務に当たっていきます。そして、選んだ人々の責任も重大です。篤い祈り、助言、協力がないところで主教職は務まらないからです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年4月

 私は幼い頃、他の兄弟たちとは違って、よく機嫌をそこ損ねては一人外に出てしまったり、山羊小屋に隠れたりしました。幼心に、自分をわかってもらえていない、大事にされていない・・・と思い込み、家族を試してみたかったのでしょう。ぷいっと家を出て、山羊小屋に行き、干し草の中でじっとしています。きっと誰かが探しに来る・・・と、自分の行動とは裏腹に、そこでずっと待っているのです。誰かが心配して来てくれる・・・。一時間たっても二時間たっても辺りが薄暗くなっても誰も探しに来てくれないときの寂しさは、今でも心の奥に残っています。(家族は私が山羊小屋にいるのを百も承知でした)
 キリストがご復活後、弟子たちに現れたとき、たまたま、弟子の一人トマスはそこにいませんでした。喜びに溢れた弟子たちから主が現れたことを聞いたトマスは、その傷跡に指を入れなければ信じないと頑なに拒みます。トマスの心の中は、何故、私のいないときに、主よ何故私を避けて・・・と寂しさにさいなまれていたのではないでしょうか。幼い頃、暗い山羊小屋でじっと耳を澄まして家族の楽しげな声を聞いていた自分の姿と重なります。人は寂しさ故に頑なになり、寂しさ故に攻撃的にもなります。そんなトマスにキリストは再び現れ、信じない者ではなく、信じる者になりなさいとご自分の傷跡をお見せになります。
 罪の根源は神から離れること、それは人間にとっての寂しさの極みでもあるように思います。そんな私たちに復活の主は呼びかけてくださいます。「平和があるように」と。「あなたとともに私はいる」と。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年3月

 大斎節も半ばを過ぎました。すぐにも受難週が、そして復活日がきてしまいます。そのような時、もう一度、大斎始日の「灰の十字架」のお話をしたいと思います。
 米国にいた時、大斎始日には、バスや電車に乗っても、スーパーでも、通りを歩いていても、額に黒く十字架が記された人をよく見かけました。「灰の水曜日」とも呼ばれる大斎始日、信徒たちは教会に集まり、前年の棕櫚(しゅろ)の十字架を焼いた灰で、司祭によって次の言葉と共に額に十字架を記してもらいます。「あなたは塵(ちり)だから、塵に帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠をつくしなさい」。中世の修道院で言い交わした「メメント・モリ」(汝、死ぬべきを知れ)と同じです。
 今年の大斎始日は二月十八日でした。夜のテレビニュースには、米国共和党の実力者のポール・ライアン下院歳入委員長と、甘利明経済財政・再生相が、環太平洋経済提携協定(TPP)の件で会談している様子を伝えていました。その時、テレビ画面にアップで写されたライアン氏の額に、何と黒々と十字架が記されているではありませんか。その隣の席の補佐官の額にも。
 米国からの特使を迎えた日本政府側の甘利大臣始め役人の方々は、それを見てどうしたのでしょうか。きっと「何かついてますよ」とか、「何ですか、それは」などと聞いたかもしれません。ライアンさんたちは、この朝、宿泊先のホテル近くの教会で、大斎始日の礼拝に出たのでしょう。
 礼拝後、ウェットティッシュできれいに消した私は、思わずウーンと唸(うな)りました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年2月

 去年のクリスマスから今年にかけて、子どもたちの堅信式が続きました。小さい子は八歳の小学生に始まり、中学生、高校生・・。それぞれ一大決心をした面持ちで、緊張のうちに堅信式に臨みます。私の前に立つこれらの子どもたちを見ながら、私は大きな喜びと共に、これから彼らが歩んでいく道に立ち塞がるであろういろいろな困難を思います。特に、キリスト者であるが故に辛い思いをしなくてはならない状況に陥るかもしれないことを思い、一人ひとりに手を按(お)きながら、彼らが信仰を全うできるように祈ります。 楽しいこと、おもしろいことが溢れているこの時代に、何故、自分を教会に繋ぎとめる決心ができたのか。親や牧師の勧めもあったのでしょう。けれども、それだけではなかったと思います。堅信によって何かが変わると思えるような上からの導きがあったことは確かです。「あなたがたがわたしを選んだのでない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。
 主なる神様は決してあなたを見放すことはないと信じることを私たち大人はどれほど重要に思っているでしょうか。何が起こるか分からない状況の中で、そこから逃れさせていただき、安全に生き延びることではなく、何が起こっても、一度救われた生命(いのち)、魂は何ものにも侵されることがないのだと私たち大人が身をもってこの子どもたちに伝えていくことをしているだろうかと、子どもの堅信式に臨む度にいつも襟を正す思いにさせられます。そしてまた、初陪餐した後の子どもたちの何とも言えない、恥ずかしそうな照れくさそうな、それでいて誇らしげな顔を見るのが大好きです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2015年1月

 明けましておめでとうございます。
 昨年十二月の始め、私は韓国のテジョン教区の主教按手式に行きました。現在、帯広聖公会牧師の李司祭の出身教区です。この礼拝で私は説教を依頼されていました。それだけでも荷が重いのに、翌日の日曜日、ソウルの大聖堂での主日礼拝で説教をしてほしいと金根祥(キム・グンサン)首座主教から連絡が入りました。そして、金大主教からは、ソウルの大聖堂で日本人主教が説教するのは、戦後初めてのことだとも言われました。
 昨年十月には、日韓聖公会宣教協働三十周年記念大会が韓国の済州島で開かれ、北海道教区からは私と大町、李両司祭がそれに参加しました。戦後七十年を今年は迎えますが、日本と韓国の聖公会の正式な交流は三十年だったということは、何を意味しているのでしょう。
 過去の苦しく、辛く、悲しい歴史が両国の間にあって、多分声に出しては言わなかったでしょうが、今まで、日本人主教が韓国の主教按手式で、また大韓聖公会を代表するようなソウル大聖堂の主日礼拝で説教するなどとは考えられないことであったと思うのです。
 両教会の交流が始まって三十年が経ち、ようやくこのようなことが可能になったのでしょう。
 私にとっては正直、重い役目でありましたが、お引き受けしました。ソウル大聖堂に集まった六百人ほどの会衆に、「和解」は決して易しいものではなく、痛みと哀しさを一生担いながらも、それ故に、悔い改めと和解を主に祈りながら、私たちは平和の福音の道を歩み続けていくということを語りました。

主教 ナタナエル 植松 誠