2013年11月

 Cさんから手紙がきました。昔私が牧師をしていた教会の信徒です。八七歳のご主人と、今も毎主日、教会の礼拝を欠かしません。その手紙をご紹介します。
 主日の聖餐式で、夫と共に陪餐した時、司祭が二人のために短く祈ってくれました。それに感動して、涙が溢れ、自席に戻ると、夫が自分の背中をたたいて、「泣くな、泣くな」と。司祭様がお祈りしてくださったことが嬉しくて涙が出たのだと言うと、夫は今度は、「喜べ、喜べ」と言って背中をさすってくれたとのこと。
 ご主人は結婚を機にCさんと同じ信仰に入られ、今に至るまで熱心な信仰生活を送ってこられました。しかし、年と共に、お互いに怒ったり腹を立てることも多くなり、そのような自分の姿に耐えられないという日々を送りました。その中で、神様にお祈りする以外に道は無いと思い、祈り始めました。祈って祈って、今は腹が立たなくなり、普通に対応できるようになったとのこと。「やっぱり神様は聴いてくださると分かって、涙が出て仕方がない、感謝の気持ちで一杯です」と。
 Cさんは、教会に行くのを楽しみにしているご主人を教会に連れていくことを一番大切にしています。このご夫婦は、昔から陪餐の時、「主イエス・キリストのからだ、主イエス・キリストの血」という司祭のことばに、礼拝堂中に響く声で、「アーメン」と応えます。主イエス様のご聖体を拝領することがそれだけ二人には大事なのです。
 今もお二人がこのような信仰に生きているということは、牧師であった私には大きな喜びであり祝福です。
主教 ナタナエル 植松 誠

2013年10月

 九月最後の主日、厚岸聖オーガスチン教会の巡回でした。釧路の教会からも十名ほどが来てくださいました。愛餐会で大いに盛り上ったのは、五年前の厚岸と釧路の合同野外礼拝のことでした。
 この時も九月の最後の主日、合同礼拝は道立少年自然の家(ネイパル厚岸)の森に囲まれた草原で行われました。秋晴れの中、釧路から運んだテーブルを聖卓にして、皆はそれぞれ草の上にシートを敷いて座りました。
 説教になると、私たちのまわりに野生のエゾシカが何頭も現れ、中には子鹿もいます。結構近くまで寄ってきて、草を食べたり私たちの様子をうかがっています。そうなると、信徒のほとんどは私の説教よりも鹿の方に関心が向いてしまいます。鹿たちの一挙一動に、皆が微笑んだりカメラを向けたり。
 聖餐式は進み、感謝聖別や主の祈りが終わり、いよいよ陪餐。聖職や奉仕者が陪餐して、いよいよ信徒たちの番になった時、真っ先に聖卓の前に出てきたのは一頭の鹿でした。そうっと来て、そこに立ち止まり、何と頭を下げたのです。信じられない光景に、私も信徒たちもただその鹿に見入っていました。誰も声を発せず、静かに時間が、数秒でしょうが流れ、鹿はまたゆっくりと森の方に歩いていきました。カメラを向けることさえ皆忘れていました。まるで、聖フランシスコの世界にいるような思いでした。
 この話を東京でのある集まりでした時、一人の信徒が私に真顔で尋ねました。「その鹿は陪餐したんですか」。 えっ?

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年9月

 八月の最後の主日は、毎年道北四教会合同礼拝が行われます。今年も旭川、深川、留萌、稚内の信徒が、前日夕方から豊富温泉に集まり、修養会。主教講話や講師の話(今回は原子力発電とそのリスク)を聞き、聖歌を歌い、祈り、楽しく夕食や入浴。翌朝は、稚内聖公会で聖餐式。いつもなら数名の礼拝が、この日は四十名近い人で礼拝堂は一杯になりました。
 今回十回目となる道北四教会合同礼拝でしたが、日本最北のこの小さな教会への熱い想いが皆の心に溢れています。実際、旭川、深川からですと二五〇キロ以上、留萌からでも二百キロもあります。今回はそれに加えて札幌、岩見沢、帯広から駆けつけた方々も。
 何とか稚内の教会を地域にPRしたいと、今回はミニバザーも開かれ、参加者がそれぞれの教会で用意して運んできた野菜や手芸品などが並びました。道行く人々やご近所にも「バザーにどうぞお出でください」と呼び込む人もいます。そして、この日の礼拝信施とバザーの収益金は稚内の教会のために捧げられました。
 高齢の方も多いのですが、来年もまた稚内に集まることを決め、旭川の教会が進んでその幹事を引き受けてくださいました。
 参加することは決して容易(たやす)い訳ではありません。労力、時間、お金などを犠牲にして、それでも優しさと思い遣りをもって集まるのです。
 「十月になると本当に寂しくなるんだよ。ファックスでも送ってね」という稚内の一信徒の声に、皆が微笑みながらうなずいていました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年8月

 一週間のうちに二つの教会の礼拝堂聖別式に行ってきました。一つは東北教区の釜石神愛教会、もう一つは中部教区の可児(かに)聖三一教会です。釜石神愛教会は新築の保育園の二階にあるこぢんまりとしたもの。大震災の被災地にあって、保育園と教会はこれからも被災者と共に歩んでいきます。礼拝堂は、その歩みの真ん中に主イエス様がいらっしゃることの証明。
 可児聖三一教会は中部教区の新しい教会です。岐阜県の可児市や美濃加茂市には多くの外国人、特にフィリピン人が居住しています。これらの人々は、日本での就労を求めて来日し、可児市周辺の自動車部品工場などで働いています。労働条件は厳しく、不安定な雇用・賃金の中、家族の生活も大変です。可児聖三一教会の働きである可児ミッションは、これらの人々のために幼児クラスや小中学生の日本語教室などを開いています。因みに、私はこの可児ミッションの後援会会長を務めています。
 聖別式にはフィリピン北中央教区のパチャオ主教様もお出でになり、英語、日本語、タガログ語などによる礼拝で、私の説教もタガログ語に訳されました。奉献は圧巻。献金の後ろに、野菜、果物、花などがバスケットに満載で続き、その先導は、フィリピンの北部地域住民の民族衣装を着けた青年たちが、ドラ(ゴング)を打ちならし、踊りながら聖卓へ。このような教会が日本聖公会にあることに改めて驚き、喜びに溢れるフィリピン人会衆の顔を見ながら、大きな感動を覚えました。
 式後の祝会でのフィリピンの郷土料理も最高でした。
主教 ナタナエル 植松 誠

2013年7月

 毎年六月頃になると、私は本州の親戚や知人にアスパラガスを送ります。北海道の露地栽培のアスパラは、ほのかな甘みとしっかりした風味がいつも大好評。生産者から朝採りのアスパラを直送してもらうシステムで、近くの郵便局から注文出来ます。インターネットでもアスパラ発送の案内がいっぱいあります。その中に、「訳あり」ということで安いアスパラを見つけました。長さや太さが揃っていない、断面が真ん丸ではなくて楕円だということが「訳あり」とのこと。人様へ贈るものですから気にはなりましたが、親戚や親しい人ばかりですから、「訳あり」を受け取って何かまずいことがあったら、正直に知らせてほしいと頼みました。その結果、全員が、まったく問題無し、とっても美味しかった・・・と。
 サイズや形が揃っていれば確かに見栄えは良い。味も良いでしょう。でも「訳あり」だって味は最高。それなのに商品価値は無いということで、栽培農家では廃棄処分になってしまうのだそうです。
 さて、私たちはすべて「訳あり」です。不揃いだし、見た目にはあまりぱっとしません。人には言えないいろいろな「汚さ」だって持っています。でも、「訳あり」である私たちの味は、きっと美味しいはずです。だって、神様が精魂こめて私たちを育ててくださったから。「私たちは神の作品」とエフェソ書にありますが、不揃いなものとして作られながらも、それぞれに最高の味をお与えくださっています。私の味は素晴らしい
し、あの人、この人の味も素晴らしい。「訳あり」であるということ、何か嬉しくなりませんか。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年6月

 さる五月三日、寺本睦夫司祭と小貫雅夫司祭が、金祝を迎えられました。金祝というのは司祭按手五十周年のことです。ちょうどお二人とも、その日に行われた聖婚式のために札幌キリスト教会に来られていたので、式後、サイドチャペルでお二人と、またそこにいらしたご家族と一緒に、感謝の祈りを捧げました。
 一九六三年(昭和三八年)五月三日、上田一良主教様から司祭按手を受けたお二人のその時の決意がこのように「北海の光」に残されています。
 「ああ主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」とひれ伏した若き日のエレミヤの姿が目に浮かびます。しかし、「われ神の助けによりてかくなさん」 この言葉により、全てのことをなしてゆきます。(寺本司祭)
 「汝ら我を選びしにあらず。我汝らを選べり」 神の不思議な摂理を覚えます。「我に従え」との主のみ声に励まされ、皆様と共に主の戦士として主の教えとご生涯をならい伝える生活をひたすら追っていくつもりです。(小貫司祭)
 このようなご決意の中で、その通りに生きようとすることが、司祭としての五十年間、どれほど困難であられたかを想像します。決意を大切に抱きながらも、私たち聖職はその決意通りには生きられず、自分の弱さや足りなさに気付かされます。それゆえに、主の憐れと力にすがり、また、多くの人々の祈りによって支えられていることに最高の喜びを見出していくのです。お二人にとって司祭としてのご生涯は祝福であったと信じ、寺本司祭と小貫司祭の五十年のゆえに主に感謝。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年5月

 北海道教区には二四の教会があります。私はそれらの教会を年に二回巡回することにしています。限られた主日の数で、全部の教会を年に二回というのは、かなり大変で、土曜日から日曜日にかけて二教会を巡回したり、午前と午後とで二教会を回ることもあります。
 二回の巡回にこだわるのは、各教会の信徒に何としてでもお会いして、一緒に礼拝をお捧げしたいからなのです。年に一度だと、その日に来られなかった信徒には、二年間お会いできないということになってしまい、その間に引っ越したり、天に召された方には、何のお別れもできないことになってしまいます。
巡回の際、いつも座っておられた席が空いていて、礼拝後に牧師に聞くと、天に召されたとか、子どもの住む東京に引っ越したとか、施設に移られたなどということがよくあり、寂しさを覚えます。
 ある教会では、主教巡回だということで、無理をしてでも礼拝に来てくださる信徒があり、手を取り合って再会を喜び合います。教会を去る時には外まで見送りに出てくださり、「またお会いする時までどうぞお元気で」と言う私の言葉に、「もうこれが最後かもしれません」と。以前でしたら、「そんなこと仰らないで・・」と言った私でしたが、この頃は、「そうかもしれませんね。でも、もしもそうであったら、次は天国でお会いしましょう」と言うようになりました。
 実際、それがこの世での最後の別れになった方もおられます。寂しさはあっても、私は復活の生命の希望のうちに再会を楽しみにしています。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年4月

 三月二一日に英国カンタベリーで行われた新しいカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビイ師父の就任式に、日本聖公会首座主教として参列しました。ジャスティンは以前からの私の友人です。一昨年、ダラム教区の主教に就任したのは知っていましたが、それから一年もたたないうちにカンタベリー大主教の候補者に挙げられていると聞いたときはとても驚きました。カンタベリー大主教は単に英国カンタベリー教区の主教にとどまらず、世界の聖公会員八千万人の霊的指導者であり、聖公会を代表する存在です。ジャスティンは、主教になる前から、世界各地で起きている紛争に、命の危険を冒して出向き、和解のための仲介の役割を果たしていた人です。今、混迷する世界情勢、また教会の状況の中、彼への期待がとても大きいことを感じました。
 就任式の冒頭、カンタベリー大聖堂の扉から入ってきたジャスティンに大聖堂信徒を代表して少女が訊ねました。
 「あなたは誰? 何をしに来たの?」それに対して大主教は「私は主の僕のジャスティン。神様に従う旅をあなたと共にするために来ました」と答え、どのような自信があるのかという彼女の問いに対して、「私は十字架につけられたイエス・キリストしか知りません。今、私は弱さと恐れの中で震えています」と答えました。少女は励ますように、「では、私たちは身を低くして、神の御前で神の憐れみと力を共に求めましょう」と言って大主教を迎えたのがとても印象に残りました。まさにカンタベリー大主教に就任するジャスティンの正直な心境と決心だったと思いました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年3月

 この冬は例年になく雪が多く、東京や関西の行き帰りに飛行機の欠航や遅れに何度も遭遇しました。「オイ、早く出せっ」と航空会社のカウンターで怒っている男を先日も新千歳空港で見ました。滑走路の除雪がなかなかはかどらず、全ての離発着が止まっているのに、「全日空は飛んでいるじゃないか」などどいい加減なことを言っていきりたっている姿を見ながら、この人は北海道の人ではないなと思いました。
 ある夜、私の乗った飛行機が吹雪の中、やっとのことで新千歳に着陸できたのは良かったのですが、JRもバスも運休となっていて、復旧の見通しも立っていないとのこと。降りた乗客が家に電話している声が聞こえました。「迎えに来んでもいい。こんな吹雪なんだから。そのうちにJRも開通するから」と。
 「いやぁ、今日はしばれるねぇ」、とか、「すごい雪だね」などと言いながら、北海道の人は、そこで怒ったり逆らったりしないのです。黙々と雪かきを続け、空港や駅で待ち続けるのです。それは「あきらめ」とも違います。自分一人が怒ったり、抗ってみたところで、大自然のすることにはかなわないという、謂わば「悟り」のようなものなのです。 
 そして、これは私たちの信仰とも似通っています。無意味とも思える雪かきやひたすら待つということの中には、「そのうちに何とかなる。そのうちに春が来る」という悟りがあるのではないでしょうか。暗闇や絶望としか思えない状況の中にあっても、それで終わることはないという復活への希望がそこにあります。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年2月

 五〇年以上前に作られた「ベン・ハー」という映画、その中で私の好きな場面があります。ナザレの村で男が大工のヨセフに尋ねます。「あんたの息子は、父親の仕事をしていないではないか」。それに対してヨセフが答えます。「いや、しているよ」。
 昨年の管区の宣教協議会以来、宣教とは何かということが語られています。最近この宣教について深く考えさせられたことがありました。
 この一月、続いてお二人の信徒のお葬式に出ました。一人は八三歳で天に召されたSさん。彼女は二四歳の誕生日に厚岸で洗礼を受け、その後天に召されるまで、熱心な信仰生活を続けました。結婚を機にキリスト者となられたご主人と共に、周囲の人々を温かく優しく気遣い、多くの人にキリストの愛を証ししてきました。その人生には数々の困難もありましたが、主への信頼を失うことはありませんでした。
 もう一人は七九歳で召されたIさん。彼女は網走で一七歳の時に受洗しています。そして同じ年に洗礼を受けたTさんとMさんの三人で今日まで強い友情と信仰で繋がれてきました。それぞれが結婚して住む場所が違っても、この「三人姉妹」の深い交わりは変わりませんでした。ついに三人が揃って札幌の教会で信仰生活を送るようになりましたが、長い人生を三人で共に励ましあって生きるお姿に、私は深い感銘を受けました。
 地方の小さな教会で始まったこれらの方々の信仰。それは決して華々しい宣教には見えなかったかもしれません。しかし、私は今思うのです。確かにすごい宣教をしていたのだと。

主教 ナタナエル 植松 誠

2013年1月

 新しい年となりました。かしこまって、「明けましておめでとうございます」と挨拶する日本の正月が私は好きです。大晦日と元日は連続しているのですが、敢えて旧年のことには一応の括(くく)りをして、気持ちを切り替えて新たな出発をするというのは、キリストの死と復活のいのちを生きる私たちの信仰にも通じるものがあるように思います。
 昨年十一月、深川の信徒のOさんが亡くなりました。葬儀の日が私の巡回と重なり、私は深川の主日礼拝を終えて、夕方の留萌の礼拝に行く前に、Oさんのお宅に伺い、納棺前のOさんにお別れをしました。八五歳まで教会の中心的存在として教会を愛し支えてきたOさんでした。その時、奥様のT子さんから、ご主人が亡くなる直前に病室で書かれたものを見せていただきました。「ありがとうございました。主イエス・キリスト様。私の人生、悔いは無し。私ほど幸せな人はいない。甲斐司祭様、よろしく頼みます。T子、苦労をかけたね。ごめんね。ありがとう」。そして、家族の一人ひとりに、教会の信徒に、友人に、ありがとうと感謝を伝え、最後に「主のところに行くことになるだろう。ちょっと苦しいがたいしたことではない」で終わっています。
 Oさんの人生、決して幸せなことばかりではなかったでしょう。最後は呼吸困難で大変苦しかったはずです。しかし、もう自分のこの世でのいのちが尽きようとしていることを知ったOさんにとって、それまでの人生も、今の苦しみも、すべて主の御腕の中に、安心してお委ねしたのでしょう。Oさんの新たないのちの出発でした。

主教 ナタナエル 植松 誠