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この時期になりますと、昔アメリカ留学中に過ごしたクリスマスを思い出します。三〇数年程前ですが、私はオクラホマ州の小さな田舎町の大学院で学んでいました。ホームシックには対処できましたが、たまらなく寂しく、孤独感を感じることが年に二回ありました。一つは十一月の感謝祭(サンクスギビングデー)と、もう一つはクリスマスでした。両方とも、アメリカでは祝日となっていて、丁度日本のお盆やお正月のように、多くの人が自分の家に里帰りし、数日間のホリデーを家族揃って楽しく過ごします。
私の大学でも、この時には学生たちが皆、里帰りするので、学生寮は暖房と電気が止められ、どこにも行き先のない留学生たちは、その間、毛布にくるまって震えながら過ごします。どの家庭でも皆が談笑しながら、七面鳥の晩餐を囲んでいる情景を想像しながら、車も持たない留学生が、どこにも行けずに、ローソクの灯りの中で震えながら休暇の終わるのを待つというのは、本当につらいものでした。
自分を招いてくれる友がなく、自分の寂しさや孤独をわかってくれる人もないというのは、もしかするとそれが「馬小屋」なのかもしれません。暗くて、汚くて、寂しいところ。しかし、そのようなところをわざわざ選んで、神の御子はお生まれになったのです。
自分は独りぼっちだし、主をお迎えする資格なんてないと思っているあなたのところに主がお出でくださいます。クリスマスおめでとうございます。
2009年12月 主教 ナタナエル 植松 誠
日本聖公会宣教一五〇周年礼拝のために来日された、カンタベリー大主教のロウワン・ウィリアムズ師父ち共に東京、長崎、大阪で一週間を過ごしました。私より二歳年上の大主教でしたが、その聡明さ、思慮深さ、博学、温かさ、優しさに私は圧倒されっぱなしでした。
長崎では原爆資料館を訪れ、険しい表情で説明を聞き、写真をのぞき込んでいました。その後、原爆投下地点を示す碑の前で献花し、ひざまずいて頭を垂れて祈っていました。
浦上天主堂に向かう途中、永井隆博士が晩年病床で過ごした如己堂の前で祈り、隣接する永井隆記念館で永井博士のお孫さんの永井徳三郎館長から説明を受けました。その時は大主教と私だけで、私は通訳をしていましたが、徳三郎さんは、永井博士夫人の緑さん(彼の祖母)が被爆して一瞬の内に灰になってしまったところから永井博士が見つけた緑さんのロザリオを、鍵のかかった陳列ケースから取り出して大主教に渡しました。熱心なカトリック信者であった緑さんのロザリオは高熱で溶けて原形をとどめていませんでした。それをしっかりと握りしめ、額に押し当てながら、大主教は涙していました。
来日前に永井隆の「長崎の鐘」や「この子を残して」を読んでこられ、深い感銘を受けておられたようですが、長崎の地を訪れ、悲惨と不条理の極地を目の当たりにしたその現場で、被爆したキリストの十字架を額に押し当てて涙する大主教の胸中を思い、私も目頭が熱くなりました。
2009年11月 主教 ナタナエル 植松 誠
日本聖公会宣教一五〇周年の大礼拝が、九月二三日、カトリックの東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられ、北海道からも一二〇名ほどの聖職・信徒が参加しました。考えてみますと、この数は北海道教区の現在受聖餐者の一〇分の一にあたります。当日、大聖堂でお会いしたこれら多の方々のお顔がとても晴れやかで、また嬉しそうでした。礼拝開始一時間前の午後〇時半に開場の予定でしたが、早い人は既に朝の九時には入り口の前に並んだとのこと、早めに開場することになりましたが、正午には既に大聖堂は人で溢れ、別会場もほとんど座れない状況で、多くの方が立ったままでの礼拝となりました。三千人にもなる大会衆で、陪餐も延々と続き、三時間にもわたる礼拝でした。北海道の各地からおいでくださった方々のお顔が会衆席前方に見えましたから、きっと早い時間から並ばれたのでしょう。
日本の各地からだけでなく、世界各地の教会からも首座主教や主教たちがたくさん来てくださり、特に大韓聖公会からは一五〇名を超す方々がお祝いに駆けつけてくださいました。礼拝の後、海外からの主教たちが、「日本聖公会の宣教の熱気に圧倒された」と口々に仰っておられました。
世界にあっても、日本にあっても日本聖公会はとても小さな教会です。しかし、その教会がこの一五〇年、着実に歩んできたことは確かで、その中に私たち北海道の一人ひとりも生かされてきました。
さあ、沖へこぎ出していきましょう。
2009年10月 主教 ナタナエル 植松誠
先日、アメリカ留学時代の友人が訪ねてきました。今は関東の大学で教鞭をとっていますが、その当時、彼は日本キリスト教団の牧師で、私が在学していたオクラホマ州の田舎町の大学院で神学を学んでいました。今回、二〇数年ぶりの再会で、懐かしい思い出話に花が咲きました。彼は新婚の奥さんを連れて留学しており、私もその2人も貧乏学生として必死にアルバイトをしながらの生活でした。しばらくして私も結婚したのですが、親に負担をかけまいとして、毎日、じゃがいもばかりの食事だったこともあります。
翌年、大学院を卒業し、オクラホマ教区の神学生としてテキサス州オースチン市の神学校に入学しました。不安と畏れでいっぱいの中、もう後には退けないという決意をもっての入学でした。
勉強の難しさ、語学のハンディ、召命感の迷いなどに悩み苦しみながらの神学校生活でした。家内も家計を助けるために、毎晩市内の日本料理屋で働きました。そのような私たちのことを、日本の両親はいつも心配してくれ、祈りとともに仕送りまでしてくれました。心配のかけどおしでしたが、おかげで無事に卒業し、執事に按手されて帰国しました。
この九月、ヨーロッパでの留学を終えた私たちの息子がアメリカでの研修に旅立ちました。神学生の時にオースチンで生まれた息子です。彼は今二七歳。丁度私が神学校に入学した歳です。あの頃を思い出し、私も親として、祈りながらも心配する日々です。
2009年9月 主教 ナタナエル 植松誠
日本各地で大雨による洪水、土砂崩れが起きていますが、北海道でもこの夏は異常気象です。冷夏で雨が多く、日照不足。各地の教会を巡回する度に、農家の信徒から、小麦に実が入っていないとか、メロンが今年は全くダメとか、じゃがいも畑が水に浸かっていて、この秋の収穫はあまり期待できないなどと言う声を聞きます。
倉本聰原作のTVドラマ「北の国から」に私の心をとらえた一場面があります。大滝秀治演ずる酪農家の老人が都会の人に話す一節です。「わしらは天災に対してあきらめちゃうんです。自然が厳しいから、あきらめちゃうことに慣れちゃうんです。めちゃくちゃにやられて、もう駄目だと思うときに、へらへら笑っちゃうんです。あきらめちゃうんですよ。神様のしたことには」。
これはキリストを信じる北海道の信徒の信仰にも通じるものがあるように思えます。へらへら笑ってしまうのは、決して可笑(おか)しく嬉しいのではなく、どうにも収まらない心の苦悩ややるせなさを、笑いで必死にこらえている姿です。笑いの奥には泪があります。自然の厳しさの中で、自分一人では生きていけない現実、自分の力は大自然の前には何の何の役にも立たないくらい小さなものであることをいやというほど思い知らされる中で、神様への無条件降伏なのです。この笑いは、自分の弱さや限界を素直に認め、じっと耐え、神様のしてくださることに絶えず希望を持ち続けることを思い出させます。
豊かな収穫を祈りつつ。
2009年8月 主教 ナタナエル 植松誠
「ほら、あのお方がカンタベリーのダイソウジョウよ」と母は私たち4人の子どもに上擦った声で言いました。今から50年前のことです。東京の千駄ヶ谷の都立体育館で日本聖公会宣教百年の大礼拝が行われ、その延々と続く入堂行進の最後にいらしたカンタベリー大主教のフィッシャー師父を母は指さしたのです。あの大改修の熱気、興奮、緊張は当時小学2年生であった私にも鳥肌が立つような感動を与えたものでした。「センキョウヒャクネン」に行けばカンタベリーのダイソウジョウにお会いできる・・・と母は幼い子どもたちに言い聞かせ、センキョウヒャクネンが宣教百年で、ダイソウジョウが大僧正(当時は大主教をそのように呼ぶ人もいた)のことだとはさっぱり分からないまま、私たちは百年記念の歌を覚えて歌ったのでした。それは今でもよく覚えています。
「聖霊くだり、愛の手に。扉は開け、陽に映ゆる。み旗のもとに宣教の、誉れは薫る百年ぞ。ああ勇み立つ、この集い、我らの光、聖公会」
遠い昔、この記念礼拝を前にして、子どもたちにその意義を教え、田舎からわざわざ子どもたちを東京に連れて行った母の思いを、今改めて思い巡らしています。歴史、生活、教会の中に、昔も今も未来も働かれる神様のご臨在を、母は子どもたちに見せたかったのでしょう。
九月の宣教百五十周年礼拝では、カンタベリーの大主教が説教をされ、私が司式をさせていただきます。畏れで胸がいっぱいです。
2009年7月 主教 ナタナエル 植松誠
五月一六日、教区礼拝が札幌キリスト教会で捧げられ、その中で二人の聖職候補生が執事に按手されました。教区礼拝の中で聖職按手が行われたのは、私が主教に就任してから初めてのことでした。北海道各地から集まった三〇〇人を超える聖職・信徒、そして説教者としておいでくださった東北教区の加藤博道主教様と共に、新執事の叙任をお祝いできたことは、大きな感謝と喜びであり、集まった一人ひとりもそこに聖霊の恵みを感じることができたのではないでしょうか。
遠方からこの教区礼拝に参加してくださった方々に深く感謝いたします。札幌に来るためには時間もお金もかなりかかったことでしょう。また、ご高齢の方にとっては、体力や気力にも相当な不安があったことと思います。しかし、そのような方々が嬉しそうに皆と挨拶を交わし、自分の教会のバナーを誇らしげに掲げて入堂する姿は、それだけで教区礼拝のもっとも大事で本質的な目的が果たされているように感じました。
主イエスを信じる私たちが共に集うこと、平和の挨拶を交わし、お互いの安否を問うこと、そして、皆で主の聖餐に与ること、そこにはそれ以上の難しい大義名分などは要りません。
一人ひとりに声をかけてご挨拶を、またお礼を申し上げたかったのですが、あのような大勢の集まりの中ではとても無理でした。しかし、あの教区礼拝の感動は、そこに来てくださったお一人おひとりの犠牲と奉献から生まれたものでした。
2009年6月 主教 ナタナエル 植松誠
五月の連休に入って、やっとタイヤを冬用から夏用に交換しました。汗だくになりながらのかなりの重労働でした。毎年秋と春の二回の作業ですが、やはりこの時期の交換の方が気分的には楽です。長い冬がやっと終わったという喜びがあるからです。半年続いた冬からの解放は、まさにスプリングと言うように跳びはねたくなる気分です。
四月半ばに今金インマヌエル教会の復活日礼拝がありました。今年は復活祭と一緒に種の祝福式も行われました。祭壇の前のテーブルに、この春に蒔かれる種籾、豆、コーン、種芋などが置かれ、その脇にはイースターエッグの入ったかごも捧げられました。
種の祝福は、まさに復活祭に相応しいと思いました。長く厳しい北海道の冬は、すべての生命の痕跡を消してしまい、雪に覆われ凍った大地は一面死の世界のようです。しかし、そのような絶望と闇の支配を打ち破る主の復活がさん然と輝き出るのです。死の世界の中で、農業に従事する信徒たちは、復活の生命が与えられることを信じ、静かに待ちます。今の現実がどんなに暗くても、どんなに厳しくても、それが永遠に続くのではなく、主の溢れる生命と恵みが与えられ、秋には豊かな収穫が得られると。
今頃、今金の畑では、あの時に祝福された種が芽を出し、春の生命を謳歌しているでしょう。札幌でも桜やこぶしが、地面には水仙やチューリップなどが咲き揃い、主を賛美しています。
2009年5月 主教 ナタナエル 植松誠
黙想についてよく聞かれることがあります。「黙想って何をするのか。黙って心を鎮めようと思っても、いろいろ雑念ばかり湧いてきて集中できない」と。
アッシジ巡礼に参加された方が、自分は教会の人たちからも家族からも、アッシジで祈ってきてくれと言われて来たが、どうしても祈れない。周りのみんなが早朝から礼拝堂で黙想して祈っているのを見て、どうして自分は祈れないのかとあせってしまう。どうしたらいいのかと私に聞いてきました。
黙想にしても、祈りにしても、神様の前で、世俗的な思いを排除して、静かに、心をひたすら神様に向ける修行のように思っている人も多いのではないかと思います。
「明日の朝、礼拝堂に行って、ただ座っていたらどう?祈らなくてもいいから」と私は答えました。「そして『神様、私は祈れません。みんなのように心から祈ることができずにあせっています』って正直に神様に言ってみたら?『そんな私ですけど、あとはどうぞよろしく』って」。
祈りも黙想も、何も特別なことではないと私は思います。祈れないことはよくあります。イライラしていたり、忙しかったり、でも、そのような自分を正直に神様の前に差し出してしまうことが祈りそのものだと思います。主よ、私は今怒っています。・・・祈りどころではありません・・と。雑念、つぶやき、涙、それら何でも持ったままで、ただひたすら神様の前に身を任せて、座り続けることが祈りであり黙想です。
2009年4月 主教 ナタナエル 植松誠
映画の「寅さん」シリーズは皆に愛されています。私も大好きです。見終わってとても爽やかな気持ちになれるのは、ハラハラドキドキしても、結局「悪人」が誰もいないということだと思います。嫌なヤツ、悪いヤツと思っていても、実際はそうではなく、極めて善人だったということ。
教会とはそのようなところではないでしょうか。いろいろな人が教会に来ます。意地悪な人、冷たい人、怖い人・・など私たちは勝手に思いこみます。確かに個性やクセのある人ばかりです。でも、実際はみんな善人。教会で何か悪いことをしてやろうとか、人を傷つけようとか、意地悪をしてやろうとなどと思っている人はいないと思います。しかし、そのような善意ある人ばかりの教会で、どうして気まずい関係が起きてしまうのでしょう。
一つ考えられるのは、善意から、優しさから、心配から言われたことに私たちの心が過剰に反応してしまうのではないかということです。それは、いつも気にしていること、自分の中で触れられたくないと思っていること、コンプレックス、自分の中でいつも自己正当化の言い訳をしていることなどが反応してしまい、何か自分が攻撃されたと思ってしまうのです。その結果、自分を守るために、相手に対して攻撃的になるということが起きてしまいます。
教会は、主の優しさと慈しみを信じる人たちの集まりです。そこには「悪人」はいるはずがないと私は信じています。
2009年3月 主教 ナタナエル 植松誠
「○○さんが最近教会に来なくなったのは先生のせいです」とある人に言われたことがあります。その理由を聞くと、○○さんが教会の礼拝を終わって帰るときに私に挨拶したのを、私が無視したと言うのです。これには困りました。私は○○さんの挨拶にはまったく気がつきませんでした。しっかりと気を配っていないと言われればその通りです。複雑な思いで私は○○さんに謝りました。
今ではそのことが○○さんの誤解であったことが○○さんとの間で笑い話になっていますが、このようなことが教会にはよくあります。ある人の言動で傷つき、そのことで教会に行けなくなってしまうのです。誤解ではなく、本当にその人を傷つける言動があったかもしれません。しかし、ほとんどの場合、「加害者」にはその意識がなく、そのことが自分の中で憤りに拍車をかけます。「私はこんなに傷つき怒っているのに、あの人は知らん顔をして教会に来ている・・・」と。
不当な差別であったり、人権の侵害のような場合は見過ごしにできません。加害者にそのことをわかってもらわなくてはなりません。しかし、多くの場合、それは自分の意見が通らなかった、自分が無視されたなどということで、自尊心が傷ついたということだと思います。
大斎節に入ります。人となり僕(しもべ)の形をとられた神の御子、十字架の上で死なれた主イエス様の謙遜を黙想する良い機会ではないでしょうか。
2009年2月 主教 ナタナエル 植松誠
新年おめでとうございます。この一年、私たちの前に何が待ち構えているか、期待もありまた不安もあります。
昨年もいろいろなことがありました。嬉しいこともですが、悲しいことや辛いこともたくさんありました。「どうして、このような悲しいことが起こるのでしょうか。神様はなぜこのような試練を私に与えるのですか」と私はよく信徒に聞かれます。愛する人の不治の病、身内の突然の死、人からのいわれのなき中傷など、そのような理不尽としか思えない状況の中で、私たちの信仰はぐらついてしまうのです。信徒からこのように聞かれた時、ほとんどの場合、私はその方を納得させられる模範解答を持っていません。ただ、私がいつも信じている聖書のみ言葉を聞き、それを一緒に読みます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29・11)。
神様は私たちのために計画をお持ちです。それは今私たちに分からなくても、納得できなくても、神様のみ旨の中にあり、希望と平和の将来を約束するものだということ。私たちの目には不幸、災いとしか見えないことに対して、どうして、どうして・・と解答を詮索することをあえて止めて、神様の私たちへのご計画の中にそれを委ねていきたいと思うのです。
この年、皆様の上に主の豊かなお導きと祝福がありますように。
2009年1月 主教 ナタナエル 植松誠