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 昨年亡くなった両親は、以前から献体の手続きをしていました。母が医者だったこともあるせいか、献体に関してはとても熱心で、毎年行われる献体登録者の会にも出席していたようでした。若い医学生が学ぶためにとの思いもあったのかもしれません。昨年3月に召された父のお骨が、来年1月末に戻ってくることになりました。魂は天国にいるのですが、これを機会に子どもたちが集まって受け取ることになりました。
 一般的に、日本人にとって、お骨はやはりとても大切なものです。親であったり、子どもであったり、伴侶であったりした愛する者の生きた証しであり、在りし日の面影をそこに見出すのです。もう温かい手も体もないが故(ゆえ)に、せめてその深いところにあった骨を慈しむことで気持ちを収めるのかもしれません。
 キリスト教信仰では、魂のない体も骨もただの滅び行く肉体です。それが頭ではわかっていても、もし愛する子どもだったり、伴侶だったり、親だったら・・・、ましてや、復活の信仰を持たない人たちにとって、どれほどお骨というものが大切かは容易に想像できます。
 先日、札幌キリスト教会で開かれた「世界宗教者平和会議」のシンポジウムでお話しくださった、殿平善彦ご住職の遺骨返還の活動は、私たちにとってはとても衝撃的なものでした。強制連行され、重労働を強いられ、挙句の果てに物のように捨てられた人々。一人ひとり埋葬されたのは稀(まれ)で、その多くは何人もが一緒に埋められ、誰の骨かもわからなくなっている状況。ご住職はその中から遺骨を拾い上げ、韓国の家族に返す働きを最初はお一人で始められたのでした。宗教の違いを超えて、亡くなった方の人としての尊厳を守り抜くお働きに、心から、神の慈しみを覚えます。

主教 ナタナエル 植松 誠