2016年11月

 さる10月15日、美唄聖アンデレ教会礼拝堂の聖別解除の礼拝があり、たくさんの方が集まってくださいました。礼拝の中で、主教が「この礼拝堂、聖卓、聖書台・・・の聖別を解除してください」と祈り、一同深く頭を下げました。これまで、神様の聖なる宮であるこの場で、人々の信仰の営みがあり、多くの祈りが捧げられてきました。その祈りの重さや深さは礼拝堂に染みついていて、そこに入ると身の引きしまるような、魂が揺さぶられる思いがします。聖地であった美唄聖アンデレ教会礼拝堂。その礼拝堂の聖別解除をもって、この建物での礼拝は終わりとなりました。聖別解除の礼拝にいらした多くの方々、特にこの教会の牧師をした司祭たち、現在、また過去にこの教会の信徒であった方たちの思いは複雑であったと思います。寂しさ、悲しさ、なつかしさ・・・がこみあげ、涙も多くありました。私自身、聖餐式をお捧げしながら、これがこの礼拝堂での最後の聖餐式であると思うと胸がいっぱいになり、声が詰まりそうでした。
 しかし、今回の礼拝堂聖別解除で、美唄聖アンデレ教会が歴史の幕を閉じたのではありません。いろいろな状況の中で、美唄聖アンデレ教会はお隣りの岩見沢聖十字教会と合併して新しい教会としてスタートしたのです。たまたま新教会の名前が「岩見沢聖十字教会」ではありますが、美唄にとっても岩見沢にとっても、新たな宣教教会として生まれ変わったのです。神様の福音宣教は今までの長きにわたる美唄での聖職・信徒の働きの基盤の上に、これからもかの地で継続されていきます。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年10月

 来年1月1日より、洗礼、堅信、聖餐という従来の流れが、洗礼、聖餐、堅信にと変わります。日本聖公会では、これまで、陪餐(聖餐式において主イエス様の体と血をいただくこと)は堅信式を受けた人にのみ許されていました。祈祷書にも、「堅信を受けた者、またその準備を終えて主教から特別の許可を受けた者は、陪餐することができる」(285頁、294頁/今年6月の日本聖公会総会で削除)とあり、既に洗礼を受けた者が主教から堅信を受け、その日に初めて陪餐するということになっていました。
 しかし、近年、世界の聖公会で、この是非が検討されてきて、洗礼を受けるということは、それだけで既に神の子どもとなり、救いに入れられているという考え方が主流となってきており、世界の多くの管区が、洗礼を受けた者は陪餐できるというふうに改められています。 
 日本聖公会でも長い期間の検討を経て、今年の総会で、祈祷書の改正という形で、「堅信 前の陪餐」を認めることになりました。成人の場合、洗礼準備をして、洗礼を受け、そして陪餐し、次の主教巡回の際など、できるだけ早い機会に主教から堅信を受けます。堅信は、聖霊によって更なる強めをいただき、教会の信徒として責任を持ってこの世に派遣されることです。幼児洗礼を受けている子どもたちは、「初陪餐」に向けた準備をして陪餐に導かれ、堅信へと向かいます。洗礼を受けた後、教会生活から遠のいていた人も陪餐するためにはやはり準備が必要で、初陪餐後早い時期に堅信を受けます。また、他教派から聖公会に移ってきた人(信徒)は、聖公会の聖餐理解を学んでから陪餐、堅信となります。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年9月

 こんなジョークがあります。ある司祭が死んで天国に行きました。天国の中が騒々しいので門番ペテロに聞きますと、「今日、あなたのすぐ後に主教が来るので、その歓迎パーティの準備をしているのさ」と。そこで司祭は、「地上でぼくはずっと主教に仕えてきたが、天国に来ても主教は特別扱いなのか」と憤慨します。すると、ペテロが言います。「いやいや、あなたはとんだ勘違いをしている。主教が天国に来ることなんてめったに無いんだよ」と。
 素直には笑えないジョークですが、確かに、主教としての自分の生き方を考える時、このジョークがまんざらウソではないことに心が痛むのです。主教として果たすべきことをしていない、あるいは主教としてのあるべき姿でないことを自分自身に問いかけることもしばしばです。あ~あ、ぼくは、天国には入れてもらえないだろうなぁ…と思うことが実際あるのです。キリストを生きるという理想があっても、はるかにかけ離れた自分というものを自分自身が一番よく知っています。信徒に対する責任、聖職に対する責任、教区、管区、社会に対する責任…。愛をもってその責任を果たしているかどうか…。家内には、ぼくは天国には行けないかも…と半分冗談、半分本気でよく言います。
 今年一月、例年のようにアッシジへの巡礼に発つ空港で、見送りに来た家内と握手して別れるとき、じゃあまたね、万が一、何かあったら今度は天国で会おうね…と私が言うと、妻は真面目な顔で言いました。「あら? 天国に行けることになったの?」
 しまった! そうなのです。私のような者でも、やはり、心の底では天国に入れていただくお恵みを信じ願っているのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年8月

 主教室の壁に一枚の古い写真が貼ってあります。今から60年前の1956年、山梨県の清里聖アンデレ教会でのイースターの集合写真です。総勢で90人ほど。まだまだ寒い時期なのでしょう。教会の玄関を出たところで撮られた写真には、オーバーを着た人々も映っていますが、子どもたちは春の訪れを思いっきり喜んでいるように見えます。正面には野瀬秀敏主教の姿があり、その後ろには清里の開拓の父と慕われたポール・ラッシュ先生がいます。最後列には、茅野達一郎さんがいて、最前列の左端には、キャソック姿の父とその隣に母がいます。そして、右端の方に幼い私が立っています。その隣には片膝をついて私を両手で抱いている熊谷まき子さんの姿があります。
 少し気難しそうな顔をしている私以外は、みんな笑顔です。この時、野瀬主教は64歳、ポールさんは59歳、茅野さんは41歳、私の両親は39歳と32歳、熊谷まき子さんも32歳、そして私は4歳になったばかりでした。 熊谷まき子さんは、私が生まれた時に取り上げてくれた助産婦さんでしたが、この翌年、北海道の新冠に嫁いでいきました。茅野さんご夫妻も、退職後、札幌に引っ越され、札幌キリスト教会の信徒として、晩年は伊達市にご長男夫婦とお住まいでしたが、先月30日に、101歳で天に召されました。私がお訪ねするといつも喜んでくださり、私に両親の安否をお聞きになったものでした。
 まき子さんは、今も新冠でご健在。新冠聖フランシス教会を巡回すると、いつも私を待っていて、私を抱きしめてくれます。そして、「喜久江先生(私の母)は元気? ファーザー(私の父)は元気?」と何度も聞いてきます。先月、新冠を巡回した時には、「ああ、マコちゃん、大きくなって、大人になったわねぇ」と。あのイースターから60年。主に感謝。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年7月

 六月末から七月にかけて、札幌キリスト教会では、立て続けに二つの葬儀がありました。お一人は七三歳、もう一人の方は八三歳でした。でもどちらの葬儀でも、若い方たちの涙がたくさん流されました。このお二人はそれぞれに、周りの人たちを一人ひとり、大切になさった方でした。特に、若い人たち、子どもたちにいつも目をかけておられました。
 元気に、明るく、希望に満ちているように見える若者であっても、この現代という生き辛い世の中で、どんなに深く傷つき、心は震えていることか・・・。お二人は、その一人ひとりに寄り添い、その苦しみを担い、また喜びも共にし、大切にしてこられました。そのような、若者たちを愛さずにはおられない、突き動かされるようなものがあったのでしょう。それは正に、聖霊の働きであったと思います。
 大切にされた人たち、子どもたちは、それが決してうわべだけのものではなく、本物であることを感じ取っていたのでしょう。それぞれに、特別な思いを持っていたことと思います。ご葬儀での涙は、ただ、惜別の悲しみだけではなく、自分はこんなに与えられていたのだ、こんなにも大切にされ愛されていたのだという感動でもあったのだと思うのです。手を取り合って泣いている方たちもおられました。思い出に浸るように悲しみをこらえている方もおられました。そういう若者たちの姿を見ながら、私自身も感動を覚えました。○○さん、そして○○さん、天国にいらしても、どうかこの子どもたち、若者たちの魂のため、とりなしてくださいね・・・。そして、私たちも、このお二人がなさったように、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」というキリストの言葉に忠実に従うことができますように。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年6月

 大阪に住んでいる両親の住まいの近くにお寺があり、その掲示板にはいつも何か一言、考えさせられる教えが書かれています。先日、久しぶりにそこを通りかかったら、このような言葉が書かれていました。「自分こそが正しい・・・。それが人を傷つける」。お釈迦様の教えかもしれません。イエス様もファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて同じようなことをおっしゃいました。
 私たちは勿論、大体の場合、「自分が正しい」と思うことを選択します。それは当然で、大切なことです。ただ、「正しい」という範囲または限界がどこからどこまでかは人それぞれ違うものではないかと思います。「自分が正しい」というのと、「自分が正しいと思う」という違いもあります。「自分が正しい」というのは絶対的で人の正しさを受けいれません。「自分が正しいと思う」というのは、まだ他の人の思う正しさに配慮するゆとりがあるように思えます。
 「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10) 私たちは、自分でこれが「正しい」と思うとき、その正しさが絶対的ではないことを知る謙遜さを求めたいと思います。神様の正義を理解できるはずのない私たちですが、それでもやはり神様に喜ばれる「正しさ」の判断をしたいと思うし、その正しさを人々と共に分かち合いたいと切に願うのです。
 自分の正しいと思うことを大切に、そして、自分ではない、他の人が何を正しいと思っているのかを、謙虚に思い遣りをもってみていくことができるようになりたいものです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年5月


「この人がいなかったら今の自分はなかった」という特別な存在を私たちは皆持っています。今、私が想いうかべるのはファーザー・バーニー。二三歳の私が留学したアメリカ田舎町の教会の司祭。四〇代半ばの彼は、独身で、とても霊的深みのある司祭でした。誰からもファーザー・バーニーという愛称で呼ばれ、好かれ、信頼されている司祭で、私も彼が大好きでした。ピアノでポピュラーな曲を弾きこなし、毎週水曜日の夜、教会ホールでの持ち寄り夕食会ではいつも美味しい一品を供し、何といっても優しさの溢れる人でした。
 私の許嫁(いいなずけ)が日本から来て聖婚式を挙げたときの司式者も彼でした。花嫁の父の役をしてくれたのは、太平洋戦争中に日本軍の捕虜になってひどい仕打ちを受けた信徒で、この聖婚式を通して、バーニーは、和解の奇跡を私たちに、そしてこの田舎町の教会にもたらしてくれました。家内がピアノを専攻したということで、牧師館にある彼のグランドピアノを礼拝堂に運び入れ、家内のコンサートを開いてくれたりして、日本からの若い夫婦に教会が自分の家族であることをさりげなく教えてくれました。 私が神学校に行きたいと思ったのは、まさにその教会でのバーニーの牧師としての生き方を見ていたからでしょう。彼は私の神学校行きを教区主教に掛け合い、教会を挙げて私たちをテキサス州オースチン市の神学校に送り出したのでした。
 数年前、米国聖公会主教会に出た後、私は退職し年老いたバーニーを訪ねました。私たちは時間を忘れて夜中まで話し込みました。翌日、別れるとき、彼の前にひざまずき、祝祷をいただき、私も彼に祝福を授けましたが、涙で声が出ませんでした。これが最後だと二人とも分かっていたからです。ファーザー・バーニーはこの五月二日、天に召されていきました。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年4月

 復活の出来事に関する福音書の物語を読みながら、今回、特に、「エマオの途上」(ルカ24:13~35)に心が惹かれます。二人の弟子がエルサレムからエマオに向けて歩いています。そのうちの一人はクレオパです。しかし、彼の名前はそれまでの福音書には出てきません。もちろん12弟子の一人でもありません。どのような弟子であったのかもさっぱりわかりません。一説では、十字架に立ち会ったマリアの夫のクロパ(ヨハネ19:25)と同一人物とも言われていますが、それも定かではありません。ましてやもう一人の弟子はまったくの名無しです。
 そこに復活のイエスが現れて一緒に歩き始めます。不思議なことに、一緒に隣り合わせで、会話がはずむ、そのような距離感にあって、この二人の弟子は同行者をイエスだと気付かないのです。「目が遮られていて・・・」とありますが、もしかすると、弟子とはいえ、イエスのそばにいたことがなかったのかもしれません。私なりに勝手に解釈すると、この二人の弟子は、たいして取り立てることもない、どこにでもいるような大勢の中の二人だったのでしょう。 復活物語でも第一級クラスの「エマオの途上」の物語。他の復活物語のように、登場人物は当然12使徒やマグダラのマリアでなくてはならないのに、まったく馴染みのないこのような二人が大きな役割を果たすのです。
 今回、私はこの物語を読みながら、クレオパと名無しの二人とは、まさに私のことではないかと思わされるのです。ご復活の主は、名もない、取り柄のないような、しかもイエスのこともよく分かっていない私たちに現れて、一緒に歩いてくださる・・・。その時には分からなくても、後になって、「ああ、あの時に・・・」と気づくこともよくあります。主のご復活、おめでとうございます。ハレルヤ。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年3月

 日頃、どんな仕事でも、なかなか自分の思い通りにいかず、辛いことや、我慢することがたくさんあると思います。それでもそのような日常の中で、たまに本当に心から喜べることがあると、ああ、今までやっていて良かった・・・と思うものです。それは聖職でも同じで、その喜びのひとつに洗礼・堅信があります。私も巡回の折りに洗礼・堅信式があると心躍るものです。
 先日、巡回先の教会で、年配のご夫婦の洗礼式と堅信式がありました。洗礼式は司祭の司式でしたが、途中で感極まったのか、泣くのをこらえながらの途切れ途切れの司式となりました。私はその横で、「泣くな、こんな時に泣くな・・・」と思いながらも、その司祭の純真さに打たれ、どんなにこの日を待ち望み、そしてどんなにこの時を喜んでいることかと胸を熱くしたのでした。礼拝後の愛餐会での挨拶でも、涙をこらえながらの司祭の言葉に、堅信を受けられたその信徒がおっしゃいました。洗礼の時、司祭の涙を見て、司祭のうしろにおられる存在を感じ、自分を待っていてくださった、自分は随分待たせてしまったなあ・・・と感動したと。
 人が導かれ、洗礼にと招かれるのは決して聖職者の手柄ではありません。しかし、その喜びの場に自分が立たされ、その人の頭に水を注ぎ、十字架の印を額に刻むのは私たち聖職者にとっての奇跡とも言える畏れと喜びなのです。自分の弱さを知ってこそ、その奇跡におののき、喜びに溢れます。
 その日、その司祭から溢れ出る喜びに、私自身も初心に帰り、新たな力を得たのでした。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年2月



 1月10日~16日、英国のカンタベリーで、世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)の首座主教会議が開かれ、それに出席しました。アングリカン・コミュニオンの38管区の内、病気で欠席の二人以外、すべての首座主教が出席しましたが、前回、2011年、アイルランドで開かれた首座主教会議では、アジア・アフリカの首座主教の多くが欠席(ボイコット)し、今回の会議も、はたして皆が集まるか心配されていましたし、たとえ開かれても、途中で紛糾して物別れに終わるのではないか、最悪の場合、アングリカン・コミュニオンは分裂するのではという心配もありました。その原因は、米国、カナダの聖公会のように、同性愛の人々を受け容れている教会に対して、アジア・アフリカの多くの管区が反発している点にあります。
 熱い、激しい議論が飛び交いました。私は、アフリカ各地での武力紛争、飢え、HIV/エイズ、難民、貧困など、取り組まなくてはならない問題がいくらでもあるのに、首座主教たちが、人間の性の問題だけを議論するのは許されないことだと発言しましたが、これも、何人かのアフリカの首座主教たちを怒らせたようでした。
 首座主教会議では、結局、アングリカン・コミュニオンは今後も分裂せずに共に歩むことが確認されましたが、その中で、米国聖公会を今後3年間、アングリカン・コミュニオンの意思決定機関から除外することも決められました。この決定については何人もの首座主教が最後まで反対の意思を示しましたが、私もその内の一人でした。異なった文化、価値観、理解のような多様性の中で一つになることの難しさを実感した首座主教会議でした。

主教 ナタナエル 植松 誠

2016年1月

 今、2015年大晦日にこれを書いています。今年も、雨宮司祭をはじめ、親しくお交わりをいただいた信徒の方たちを天に見送りました。北海道に遣わされてから早や19年、まだ40代半ばの若かった私を主教として迎え、支えてくださった聖職、信徒の方々を今までに何人も天にお送りしました。
 時には親のように、兄弟のように、私を大切にしてくださった方々。先日逝去された雨宮先生も、最初から変わらず支えてくださったお一人でした。まだ若かった私にとって、人生のはるか先輩である聖職信徒の方々に伴われて主教職を担って来られたのだと、いろいろな方たちのお顔を思い出しながら今日の大晦日を迎えています。
 あの方も、ああ、あの方も・・・。天国にはまたお会いしたいと思う方がたくさんおられます。おひとり、おひとり・・・と送るたびに、天国が近く感じられるようになりました。死というものが、一枚の扉のように、新たな世界への入り口としてすんなりと受け入れられるように思うのです。信仰者としての生き様を見せてくださった方もありました。死を前にひるむことのない決意を見せてくださった方も、自分のことよりも周りの人たちのことを案じながら、苦しい中で家族に感謝の言葉を遺して逝かれた方もありました。それぞれが「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われたキリストの言葉を魂の奥底に秘めていたかのように、抗うことなく逝かれたのです。皆、不思議なくらい平安なお顔での旅立ちでした。そのお顔を前に、悲しみよりも感動を覚えます。○○さん、また天国でお会いしましょうね・・。私はいつも心の中でそう叫びます。

主教 ナタナエル 植松 誠