2021年11月
一〇月二四日は深川聖三一教会の巡回でした。その主日礼拝の福音書はマルコ一〇章四六節以下の「盲人バルティマイの癒し」。これまで何度も読んだ奇跡物語です。毎回読むたびに感動します。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び続けるバルティマイ。彼の必死で一途な願いに心を揺さぶられます。そして、その声に、立ち止まるイエスの優しさ。「何をしてほしいのか」というイエスの問いかけにも深く考えさせられます。
でも、今回、私はこの物語でこれまで一度も気にとめなかった箇所にくぎ付けになりました。それは、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(四九節)という箇所。主が、「あの男を呼んで来なさい」と言われ、弟子かだれかそこにいた人がバルティマイのところに行って呼びかける言葉です。バルティマイはまだイエスから離れたところにいます。「うるさい、黙れ!」とまわりの群衆から叱りつけられているバルティマイに、「安心しなさい。立ちなさい。主がお呼びだ」と言った人がいたということ。「安心しなさい」は、「勇
気を出しなさい」とも訳せます。ここで大事なのは、その言葉は主イエスの言葉ではなくて、呼びに行った人の言葉なのです。
勇気を出しなさい、安心しなさい。立ちなさい。イエス様があなたを呼んでおられるから。それは、「バルティマイ、勇気を出して、安心して、自分の弱さ、悲しみ、苦悩などなんでもイエス様にさらけ出してもいいんだよ。あなたをお呼びなんだから」ということ、そして、この声でバルティマイは上着を脱ぎ棄てて走り出し、イエスに出会うのです。
バルティマイに声をかける人、それは、私たち教会の一人ひとりではないでしょうか。「勇気を出して、安心して、イエス様に何もかも打ち明けてみたら?」と声をかけることは私たちの役割なのです。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年10月
「天城主教が、クリスマスに、エベレストの頂上で、植松司祭と、ダンスをした」…。そこにいた人たちの大笑い。私は圧倒されていたと言うよりも、なかば呆あきれていました。これは二六年前、札幌キリスト教会のクリスマス祝会でのこと。「だれが」、「いつ」、「どこで」、「だれと」、「何をした」を皆が書いて、バラバラにしたものを、適当に拾い上げて文章にする…、そう、あのゲーム。司会の須田明夫先生が声高に読み上げるたびに、皆、どぉーっと大笑い。私はこの時、管区事務所の総主事として、札幌キリスト教会(まだ古い建物)のクリスマス礼拝をお手伝いに来ていたのです。
もちろんこのゲームは知っていました。でも、それは私の子どものころのゲームで、たぶん大阪や東京でこのゲームをまだやっている教会はなかったと思います。「えっ、まだこんなゲームやっているの?」(ごめんなさい!)と。でも、そこに集まった老若男女の楽しそうなお顔を見ていて、私は何かとっても深くて温かいもの、私の心を優しく包む安らぎを覚えました。大都会には見られない単純素朴さ。
そして、その感動の中にいる私に最後のとどめをさしたのが、祝会の終わり。主の祈り、祝祷のあとの「さようなら、みなさま、静かにして、イェスさまとともに、帰りましょう」の斉唱。これも私には懐かしい聖歌。でも、子どものとき日曜学校で歌って以来、歌うことはありませんでした。2節目の「この日の教えを忘れないで、さようなら、みなさま、このつぎまで」の「さようなら」で深く頭を下げて神様と周りの人への挨拶…。「いやぁ、まいった、まいった!」。何という単純素朴さ。
これまでの二五年間、「さようなら、みなさま」を歌い、二節目の「さようなら」で頭を下げる私。今日まで、私は感動しっぱなしなのです。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年9月
7月に教役者会が開かれ、現役の教役者全員と退職司祭6人が集まりました。冒頭に「主教アワー」があり、その中で私は上平更司祭の按手式前のリトリートで話したことを再度取り上げました。
私たち聖職は執事按手式、司祭按手式、そして私の場合は主教按手式の中で、試問をされますが、その一つに次のようなものがあります。「あなたは、神の家族を築き上げるために、すべての人を分け隔てなく愛しますか(一部略)」。それに対して志願者は「神の愛に基づいて努めます」と応えます。聖職者は、すべての人を分け隔てなく愛することを求められているのです。
「愛すること」、これは主の至上命令で、聖職になる人だけにではなく、すべての人に求められていることです。しかし、聖職に按手される人へのこの試問は、「愛すること」が聖職者として生きることの条件であるかのように厳しく響きます。
私たち聖職者はたくさんの人々と関わります。しかし、その関わり方は一人ひとり皆違います。そして時には問題も生じます。言葉の行き違いがあったり、思いが伝わらなかったり、誤解も起こります。厳しい声、冷たい批判・・・。自分が信頼されていないということも感じます。その信徒との間に距離ができてしまいます。「すべての人を分け隔てなく愛する」というのは限りなく困難だと感じます。もともと「愛しなさい」と言われて愛せるものでもありません。聖職者でも好きになれない人はいます。仕方ありません。聖職者も人間だからです。でも、司祭按手前のリトリートでも、教役者会でも、私は、「好きになれないのは仕方がないけれど、決してその人を嫌いにならないで!」とお願いしました。「人を嫌いになってしまったら、イエス様の十字架の贖いを生きる聖職者としての自分を否定することになってしまうから」と。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年8月
7月8、9日に教役者会が開かれ、私が来年3月末で定年退職することに関して、北海道教区として後継主教を選挙するか、または主教選挙はしないで伝道教区となるかについて協議されました。昨年10月に行われた日本聖公会総会で、「宣教協働区・伝道教区」に関連して日本聖公会の法規が一部改定され、それによって、北海道教区としては上に述べたように二つの選択肢が与えられていたのです。
主教選挙に関する法規の定めでは、教区主教が定年退職する場合、退職の一年前から選挙をすることができます。つまり、北海道教区の場合は今年の4月1日から主教選挙が可能となっていたわけです。しかし法規改定を受けて、教役者会と常置委員会は昨年の11月以来、ずっとこの件を慎重に話し合ってきました。その結果、7月教役者会では、①植松主教の定年退職に伴い、主教選挙を行うことが適当であると考える。②伝道教区を含む教区再編については現時点で行うには時期尚早と判断し、新主教のもとで信徒を含む全教区的な協議を深めていくことが適切だと考える、という合意が形成されました。
その後、7月12日に開かれた常置員会ではその合意を受け、さらに慎重な協議を重ね、7月15日、大町信也常置委員長名で、北海道教区は次期(後継)主教を選出する選挙を実施するとの正式なお知らせが出されました。多分、皆様の教会でもその旨、発表があったことと思います。
今後、常置委員会として、主教選挙の日時など具体的な要領を決めていくことになります。
私が北海道教区の主教に按手され就任してから25年になります。現役の教役者の中でその時の主教選挙に参加したのは2名だけです。長い間、主教選挙とは無縁であった私たちの教区は、これからその大事な時を迎えようとしています。皆様のお祈りをお願いいたします。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年7月
今年、網走聖ペテロ教会は宣教開始130周年を迎えています。先日、網走の教会巡回があり、宣教130周年の特祷を捧げました。礼拝中、私の横の壁にある逝去者の銘板を見ますと、約130名の方々の名前がありました。それに加えて、この教会で信仰に入り、他の教会に移っていかれてそこで生涯を全うされた方も多くおられたと思います。
今回の巡回の直前、札幌キリスト教会信徒のKさんのお葬式がありました。Kさんは26歳のとき、網走の教会で洗礼を受け、その20年後札幌に移り、86歳で天に召されるまで、教会委員や婦人会会長などの奉仕をされ、熱心に信仰生活に励みました。彼女によって訪問を受けたり手紙をもらった信徒、特に高齢者や病者、独り暮らしの方はたくさんいたはずです。また、教会ではいつも誰にでも、子どもたちにまで優しく声をかけてくださいました。葬送式の説教では、彼女の生涯にわたる献身に対して「お疲れさま、ありがとう、主に賛美」と。本当にその通りだったと思いました。Kさんの信仰が網走の教会で始まり、深められたことに感銘を受けます。Kさんだけでなく、これまでに何人もの網走出身の信徒や教役者がいろいろな教会で信仰生活を送り、人々に大きな影響を与えてきました。
巡回当日の福音書はマルコ4章の「ガリラヤ湖での嵐」でした。教会も信徒一人ひとりも、これまでの歩みは決して順風満帆ではなかったと思います。嵐の中、主が共におられることを忘れて、右往左往していた弟子たち、そして舟のともで眠っている主を起こして、「私たちが溺れてもかまわないのですか」と叫ぶ弟子たち。それに対して、主は「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と。主が共におられる舟に乗り込んだ網走の信徒たち、まさにそのお声を聴きながらの130年だったと思います。網走の教会の宣教のゆえに主に感謝します。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年6月
5月15日、ノア上平更執事が司祭に按手されました。この日は、当初、北海道教区宣教147周年を祝う教区礼拝が捧げられ、その中でこの司祭按手式が行われることになっていました。しかし、コロナ感染の急拡大にともない、急きょ、教区礼拝は中止となり、司祭按手式は教役者と一部関係者のみで捧げられました。
司祭按手式に先立ち、三日間、上平執事のリトリート(静修)があり、数名の司祭(静修指導者)とともに私も参加しました。聖職への召命と応答、司祭職とは、そしてもっと基本的な「福音とは何か」、そして福音に生き、福音を伝えるとは・・・などということを心の深いところで考え、黙想しました。また、司祭按手は神の教会の司祭団に加えられることであり、自分と同じように主によって召された司祭たちとの協働的な牧会・宣教・奉仕への責任も改めて自覚させられました。私のようにかなり昔に司祭按手を受けた者たちにも、このような静修は大事だと思いました。
さて、今回の上平更執事の司祭按手式は、私にとって在任中での最後のものとなります。1997年3月、私が北海道の主教に按手され就任して2か月後の5月、私にとって最初の司祭按手式がありました。司祭に按手されたのは更司祭のお父様の上平仁志司祭でした。初めての司祭按手式ですからその時の緊張や感動もよく覚えています。そして24年が経ち、私の最後の司祭按手式がその上平仁志司祭のご子息へのものであったということ、二代にわたる司祭の按手に手を按(お)く恵みをいただいた主教として、上平(父)司祭から上平(息子)司祭にいたるまでの24年間に、二人を含めて15人の司祭按手と12人の執事按手の祝福に与る者とされたことを感謝いたします。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年5月
先日、北見聖ヤコブ教会の信徒Oさんが召されました。半年前の巡回では元気なお姿で、いつものように礼拝後の写真撮影もしてくださり、恒例の教会ぶどう狩りも皆と楽しく行いました。週3回の人工透析を続けながらも教会の中心信徒のお一人として、牧師を支えていてくださる方でした。
Oさんはキリスト教の大学に入学されるまではキリスト教とは無縁の方でしたが、大学の寮の同室が甲斐博邦青年で、彼に誘われて礼拝や聖書研究に出て、キリスト教に触れるようになり、そして、後に甲斐司祭が北見の管理牧師として来られてから、教会の信徒になられました。
葬儀の日に別の信徒Tさんからお聞きしたところによると、亡くなられる前日の日曜日、教会ではTさんとOさんのお二人での「み言葉の礼拝」。その後、Tさんは息子さんの車でOさんをお宅までお送りしたとのこと。その翌日のご逝去でした。
私はその話を聞き、魂が揺さぶられるような感動を覚えました。私が巡回で参ります時は、10数人の信徒さんたちと共に礼拝をお捧げします。でも、ご高齢の方も多く、「み言葉の礼拝」となると、恐らくなかなかその人数が集まるのは難しいと推察します。けれどもそのような状況の中、この日曜日にお二人で礼拝をお捧げくださったことは、どんなに細々とした礼拝であっても、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)というみ言葉が生き生きと迫ってくるのです。このコロナ禍、礼拝を守ることの困難さを私たち誰もが痛感しています。礼拝に行きたくても家に留まらざるを得ない方々もたくさんおられます。そのような中で、まさに命がけで小さな群れに一粒の麦を落としてくださったOさんから、この教会を温かいまなざしで包んでいてくださる神の存在を確かに感じたのでした。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年4月
今からもう40年ほど前、私が神学校を卒業し、執事に叙任されて、大阪教区の教会に初めて赴任した時、私は血気盛んで自信満々だったのでしょう。家庭集会や教会での聖書の学びで、滔々(とうとう)と、また長々としゃべったものでした。自分が神学校で学んできたことを聞いてもらいたかったのでしょうか。でも、そうしている自分には全く気付いていなかったのです。たまたまある家庭集会に来ていた姉に、「あなたは話し過ぎる」とくぎを刺されました。さらに言うならば、あなたの話は難しくてよくわからない・・・と。多分、非神話化論、トマス・アクィナス、化体説、生活の座(ジッツ・イム・レーベン)、解放の神学などをひけらかしたと思うのです。問題は、それらが「キリストの福音」として信徒たちに伝わったかどうかということです。答えはもちろん「ノー」です。
神学校での学びは豊かでした。その学びの蓄積が私の聖職者としての土台となっているのは確かです。しかし、それ自体は、けっして「福音」ではありません。課題はそれらをどのように「福音」として人々に伝えるかということ。これは簡単ではありません。自分の信仰がいつも問われるのです。信仰は理屈ではありません。キリストの十字架と復活によって、私の中に湧き上がる感謝と喜び、希望、いのちであり、そしてそれは外に向かってほとばしり出ていく情熱です。
「説教では自分を出さず、ひたすら神の啓示の言葉を語れ」と言われたことがあります。でも「神の啓示の言葉」はわかりやすく、福音として聴きたいのです。講解や説明ではなくて、一人の信仰者としてその人の生きざまの中で、どうしてそれが福音なのかを私は聴きたいし、私もそう語りたい。イエス様のお語りになった福音は単純明快であったはずです。私たち聖職者の説教が「福音」となることを祈っています。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年3月
2月の誕生日で私は69才となりました。昨年、丁度コロナ禍が急激に広がり始めた頃に誕生日を迎え、それから1年、誰もが考えもしなかった世の中になり、教会の諸活動も止めざるを得ず、それでも主日礼拝だけは守ることを決断し、最初は聖職だけの礼拝となることもありました。聖歌を歌えない礼拝など誰が想像し得たでしょうか。司祭たちは何度も何度もアルコールで手指を消毒しながら聖餐式を捧げ、細心の注意を払ってパンと葡萄酒の分餐をしました。感染拡大を恐れながらも、それでも主日の聖餐式を守りたかったのです。ある司祭は、信徒のいない主日の礼拝堂で、たまたまやってきた初めての方に事情を説明して同席していただき、聖餐式を挙げたとのこと。独りでは聖餐式は挙げられないのが決まりだからです。
「命」が大切・・・。勿論のことです。そして同じように霊の命、「魂」の養いは私たちにとっては欠かせないもの、いや、肉体の命以上かもしれません。感染が拡大していく状況に恐怖を覚えながらも、必死の祈りの中での聖餐式でした。
主教巡回もなかなか思うようにはできませんでした。教会生活はいろいろな礼拝や活動などから成り立っています。そこでの人と人との交わり、集会、泣いたり笑ったり共に過ごすこと、これらのことがすべて剥ぎ取られ、それでも共に礼拝を捧げることだけは守りたかったのです。
今も恐怖はあります。その中で、礼拝にいらっしゃれる方々と、心ありながらも礼拝堂にいらっしゃれない方々と、聖職たちはこれからも聖餐式を挙げ続けます。剥ぎ取られたものの大切さと、守り切らねばならないことの大切さを、この1年間、痛いほど思い知らされました。
来年、70才を迎えるとき、手を取りあって、「平和の挨拶」ができるよう願っています。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年2月
ラジオで聞いた話。ある会社員が偏頭痛で悩んでいました。誰にも言えず、と言うよりも言ったところで分かってもらえないと思っていましたが、社内に偏頭痛持ちが他にもいることを知り、それらの人々で「偏頭痛部」を作りました。自分自身が偏頭痛だったり、家族にそれで苦しむ人がいるという社員たちが加わり、会社にも認知され、その活動を通して偏頭痛に苦しむ人々のための配慮がされるようになりました。そして、そこから会社内でひとつのゲームが始まりました。「午前中、医者に行くと言って会社を早退した人が夜の飲み会に来ていた」というような場合、その人について腹を立てたり、不審の目を向ける前に、そのケースにはどのような背景があったのかと推測する・・・というゲーム。例えば、この場合、「眼科に行って、コンタクトレンズを調整してもらって、夜の飲み会には間に合った」のではないかと。このゲームは相手をすぐ審判にかけないで、その背後にありそうな事情を善意的に推測するということなのです。このゲームがいろいろな場面で行われる中で、偏頭痛持ちの社員のことだけではなくて、様々な問題に対して理解や思い遣りが深まったというのです。
「おまえは怒るが、それは正しいことか」(ヨナ書3:4)と神は私たちに問われます。家族の中で、教会の中で、私たちは怒ります。悲しくなります。自分に向けられた言葉や態度で傷つくからです。自分が理解されなかったり、正義や正当性が否定されたと思ったとき、私たちの自尊心はズタズタになります。でも、このような時、敢えて相手をすぐに罪に定めないで、その背後にある相手のこころを思い遣る・・・・、この大斎節、そんなことができないでしょうか。十字架上の主イエス様は、死に至るまで、あなたを赦し、愛し続けてくださったのですから。
主教 ナタナエル 植松 誠
2021年1月
昨年のクリスマスでの出来事を二つ。
12月13日は新冠聖フランシス教会でのクリスマス礼拝。ベツレヘムの馬小屋に想いを寄せました。何日かして、一人の信徒から次のようなお便りをいただきました。「私たちは牛飼いですから、イエス様が馬小屋の私たちのところまで降って来てくださった事に感謝しなくてはなりませんね。いちばん小さく、いちばん低くお生まれになった事の意味を改めて知りました」(一部のみ)。新冠、そこでは馬小屋は生活の現場そのものでした。
私は紋別聖マリヤ教会の管理牧師と紋別幼稚園のチャプレンをしています。昨年は、コロナ禍のため、月一回の聖餐式もできないことがあり、幼稚園の礼拝にも行けないことがほとんどでした。12月20日は教会の、また翌日が幼稚園のクリスマス礼拝だったので、万難を排してという思いで19日昼に札幌を出発。札幌は晴れていたのが、江別東以遠は吹雪で高速道路は通行止め。国道は猛吹雪で前はほとんど見えない中、何とか岩見沢に到着。市内は大渋滞、と言うより吹雪で車は動けず、数時間かかって美唄に。そこから高速道路を深川へ。また吹雪で通行止め。旭川まで神居古潭(かむいこたん)のあたりを前の車のテールランプを必死に見ながらノロノロ運転。気温は零下15度。ワイパーは氷が付着、がたがた振動しながら動いています。岩見沢でも旭川でも、何台もの車が事故にあっているのを見ました。結局、紋別まで普通なら4時間ほどで行けるところが8時間かかりました。紋別でのクリスマス礼拝は、喜び溢れる楽しい、感謝に満ちたものとなりました。
紋別行きの話を聞いた大町司祭に帰りの道はどうだったかと問われた妻は、「順調でした」と。何を言うか! 帰りも途中、吹雪で大変だったのに。さては寝ていたな。
主教 ナタナエル 植松 誠