2010年11月

 枯れ葉の季節です。このところ雨が多く、枯れ葉もまさに濡れ落ち葉。庭の木々を見上げると、これからどんどん落ちてくるであろう枯れ葉がまだびっしりを張り付いています。北海道の長い冬に向かうこの時期、何かしら訳のわからない淋しさと体の疲れを覚え、雨に濡れた枯れ葉はいつにも増して切ないものです。
 でも、その枯れ葉を掃除している家内を見ながらふと思いました。待ち焦がれた北海道の春…。雪が溶けると競うようにして花々が咲き、それに送れまいと青々とした新芽が燃え出ずる、命に満ちた季節。希望をふくらませるかのように新芽はみるみるうちに豊かな新緑となり、私たちに新鮮な息吹を送り届けてくれるのです。私たちはその眩しいような緑の葉の一枚一枚をどれほど喜び、どれほど慈しんだことでしょうか。どれほど、生き生きとしたその命からエネルギーを得たことでしょう。
 今、役目を終えたその葉っぱたちは惜しげもなくその命を風邪に委ね、雨にさらされ、そしてついには地面に落ちて土に帰っていきます。人も母の胎に宿り、新しい命として生まれ、育まれ、周りに喜びを与え、力を与えていきます。そして、やがて紅葉のように人生の最後を迎えると、すべて神様の御手に委ねてこの世での命を終えることになります。
 枯れ葉の掃除を見ながら思います。枯れ葉でさえも土の中で新たな命として生きるようにと、最後まで恵みを注がれた神様のご計画があったことを。そう思うと、枯れ葉の一枚一枚が愛おしくなるのです。

2010年11月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年10月

 昔はもっと、別れを惜しむ気持ちが強かったように思います。日々のちょっとした別れ、駅での別れ…。親しいほど別れることは辛いものでした。別れた後は、無事に着いただろうか、困ったことに遭遇してはいないかと、心配が心をよぎります。手紙に書いても届くまでには数日かかります。やるせない思いを持ちながら大事な人を想うのです。
 自分と人との隔たりの中で想像し、心配し、時間をかけて待つこと…。それは「祈り」となって神のもとに導きます。祈りは心の隙間から生まれるもの、たとえ感謝であっても、自分はそれにふさわしくないのだという足りなさから沸き出ずるものです。
 現代に生きるわたしたちは、いつも繋がっていることを求め、即、理解されることを求めています。そしてそれらを充分に満たしてくれるものも私たちのまわりに溢れています。携帯電話やメールですぐに連絡が取れ、思いや状況を知り、自分の言い分もすぐに知らせることができます。
 物事は着々と隙間無く進められ、必要な言葉で埋め尽くされます。急かされるように満たされ続ける日々に、心は想像することを忘れ、心配する前に連絡し、待つことには意味を見出さなくなっていきます。祈ることを忘れた私たちは、何事も当然のように過ぎゆくものだと勘違いして、それでもある時、ふっと立ち止まるのです。何かもっと大事なもの、もっと魂の打ち震える、力の源があったはずだと。寒々とした心の隙間にこそ、「祈り」が生じるのです。

2010年10月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年9月

 朝の連続TVドラマ「ゲゲゲの女房」の漫画家水木しげるが、太平洋戦争に出兵し、ニューブリテン島のラバウル近く、ズンゲンで片腕をなくして帰還を果たしたということを知りました。玉砕したはずの兵士の生還は許されないことであったそうです。
 私も戦後50年に、北部ニューギニアに行ったことがあります。日本軍に殺された英国とオーストラリアからの宣教師13人の殉教50周年を記念する現地の聖公会の礼拝に参加するためでした。ニューブリテン島にも近い現地は、38度を超える暑さと、90%以上の湿度。私の愛用のカメラはその湿気で、すぐ故障してしまいました。激戦地であったこの地は、今もジャングルに入ると、日本兵の鉄兜、飯盒、小銃などが錆びついて落ちています。土の表面を少し掘っただけで、人骨も出てくるとのこと。日本から遠く離れた熱帯の島で、最後は大本営からも見捨てられ、負傷や飢え、マラリアなどで亡くなっていく兵士たちは、「おかあさーん、おかあさーん」と叫んでいたと生還した戦友が語っていました。
 めまいがする程の高温多湿、毒虫やマラリアへの恐怖はニューギニアに数日滞在しただけの私でも生命の限界を感じました。
 ズンゲンやニューギニアでの悲惨な戦いの話をしたところ、「そんな話は聞きたくない」とおっしゃった方がありました。その通り。聞くに耐えられない話しです。しかし、それが現実であったことは確かなのです。

2010年9月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年8月

 いろいろな方との出会いがありました。教会の中ではみんな明るく元気にふるまっているのですが、それぞれの人生の裏には想像もできない程の苦しみや悲しみがあり、礼拝堂でひざまずくその背中には哀しみが溢れ出ているのです。
 その苦しみに関わる私も、時にはあまりの重さに打ちのめされる思いがしたものでした。なぜこんな苦しみがあなたに…。私にではなく、なぜあなたに…。いつもその思いを抱き、どうしようもない憤りを秘めながら、それでもその方の人生に深く感動するのです。「私は人の苦しみを食べて生かされている」。そう思うのです。
 その思いは、いつしかイエス・キリストの十字架への理解となっていきます。私ではなく、なぜイエス様、あなたが…。私が負うべき苦しみを、なぜイエス様、あなたが…。「取って食べなさい。これは私の体である。飲みなさい。これは私の血である」。この聖餐に陪(あず)かることで2000年続いてきた信仰を想う時、そして、イエス様の苦しみを食べて自分が生かされていると気づく時、出会う人それぞれの人生の裏に、手を合わせたくなるような深い感動を覚えるのです。
 人生の苦しみ、哀しみは重く辛い…。そして、それは終わりが見えない暗闇に思えます。けれども最後まで関わってくださるお方を通してその意味を知らされる時、私たちには心の回復とともに大きな喜びが与えられ、永遠を想う信仰が育てられるのです。

2010年8月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年7月

 「ぼくは大きくなったら主教になる」と、幼い私は言っていたそうですが、もちろんこれは主教が何であるかまるで分かっていない子どもの言うことで、大人になった司祭は滅多にこのようには言いません。
 しかし、海外の聖公会では、「私こそ主教にふさわしい」という人が選ばれることがあります。例えば、アメリカ聖公会では、主教を選ぶために教区に選考委員会が設けられ、教区内だけでなく他教区からも主教候補者を四,五人選び(その過程で我こそはという人は自薦もできる)、その候補者と面接をしたり、また候補者に課題を与えて論文を提出させたり、みんなの前で講演させたりします。候補者たちはそのような機会に、自分が主教になった暁には何をするかという謂わばマニフェストを発表し、自分をアピールします。確かに私が会うアメリカ聖公会の主教たちは皆、とても優秀な学者であり、政治家であり、組織管理や財政にたけ、リーダーシップを発揮している人ばかりです。
 もしかすると、日本においても、主教にこのような資質を人々は期待しているのかもしれないと思いながらも、そうだとしたら、私はきっと人々をがっかりさせるだろうと思います。主教に選ばれ、就任した以上、その任を忠実に果たしたいと願い努力しながらも、皆の期待する主教像には程遠い自分を私はいつも意識しています。弱く、不完全であるがゆえに、私は主に助けを求めて祈り、人々の祈りを必要としているのです。

2010年7月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年6月

 先月号で、私の顔が悪いということを書いたところ、何人もの方から心配の声が寄せられました。そのようなつもりではなかったのですが、多くの方々にご心配をおかけしたことを申しわけなく思います。
 ところがそのような中、先月東京で開かれた日本聖公会総会で、私は今回も首座主教に選出されてしまいました。教区主教の職に加えて首座主教の任を負うのはかなりの重荷です。これからも札幌と東京を往復したり、各地や海外への出張や、今後そこに起こるであろう多くの問題と困難に伴う心労などを思うと気が重くなります。今の悪い顔が一層悪くなりそうです。
 しかし、そのような思いを持ちながらも、一方では、この状態を主は必ず恵みに変えていってくださると自分に言い聞かせています。それは、私のまわりに、重い病気やどうしようもないと思われる困難の中で、それでも主に信頼し、主に希望を置く信徒と聖職の方々がおられるからです。自分自身難病の中にいながら、教会のために一生懸命奉仕してくださる方、高齢で身体が不自由な中、毎晩主教のために熱心に祈ってくださっている方。それらの方々の生き様を見ていると、確かに今の現実を変えてくださる主への信仰を感じるのです。
 私たちの生き方とは、これでもか、これでもかというような試練の現実にあっても、それを恵みに変え、祝福に導いてくださる主によって、自分自身をも変えられる明日に望みを持つことではないでしょうか。

2010年6月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年5月

 「主教さん、どこか具合が悪いんですか」と最近よく聞かれます。「お疲れなんでしょうか」とも。新千歳空港で私を見かけたが、あまりにもひどい顔だったので声をかけられなかったなどとも言われてしまいました。昨年天に召されたKさんからは、その病床をお尋ねした際、「先生が札幌にいらした時は、とても男前で惚れぼれしましたのに、最近は人相が悪い」と叱られました。彼女は私がお訪ねするたびに、私の顔を両手で挟んで自分の顔を近づけ、しげしげと見ては、その日の私の顔が良いとか悪いとか批評しました。「先生、ちゃんと鏡で自分の顔を見てみなさいよ」と言われ、彼女の生前には時々気になって鏡を見ていたのですが、最近はすっかり忘れていました。
 確かに疲れているときも、問題を抱えて考え込んでいるときもあります。それは仕方ありません。しかし、そのような時、私の顔がひどくて、または怖くて、人が声をかけたり近づくのを躊躇(ためら)わせているとしたら、それは私にとって大変悲しく憂えるべきことです。
 ちゃんと鏡を見なさいと言っていたKさんは、私に、自分の顔、態度、声が、周りにいかに大きな感化をもたらすか、そして、私たちがどのような顔で、福音を語り、聞き、生きているかを周りの人々は見ているのだということを教えてくれたように思います。
 最近、何人もの方から心配の声をお聞きし、一大決心をしました。自分の顔にもっと責任を持とうと。

 2010年5月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年4月

 私の前任者でいらしたオーガスチン天城英明主教様が、イースターの翌日、天に召されました。
 私が北海道教区の主教に選ばれたとき、私のまわりの人が「可哀想に。北海道では七〇歳まで生きられないのだから」と同情してくれたのを覚えています。厳しい環境の中で、健康を損ねて早く逝った教役者が何人もいたことは事実です。天城主教様が七〇歳の定年までこの広大な北海道教区の主教としてお働きになったということは、私のような六〇歳にもならない主教から見ても驚くべきことです。
 私が北海道に赴任するにあたり、私の子どもたちの学校のこと、引越のことなど、きめ細かに手配してくださり、札幌に下見に来たときには、放蕩息子を待ちわびる親のように、道にまで出ていてくださったことを思い出します。教区の抱えるいくつかの大きな問題を、持ち前のきめ細かさで私の就任までに解決してくださったおかげで、私は何の苦労もしないでそのあとを引き継ぐことができました。
 ご退職後すでに一三年、私も北海道で一三年を過ごし、先人たちの福音宣教の遺産の上に、今の教区が、今の私があることを思い、深い感謝を覚えます。
 また、天城主教様の傍らでいつも主教様をお支えになられた千恵子さんの存在とお働きがあったことを神様に感謝いたします。
 イースターの翌日、死から生命へと天城主教様をお召しになった復活の主に、世々限りなく栄光がありますように。ハレルヤ。

2010年4月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年3月

「私はハンセン病になったおかげでキリストの福音に出会った」。二月に主教会を熊本で開き、主教全員で国立療養所菊池恵楓(けいふう)園を訪ね、その中にある菊池黎明(れいめい)教会で入所しておられる方々からお話をうかがった時に、一人の信徒の方がおっしゃった言葉です。少年の時に発病。それ以来八〇歳を超えた現在までずっとこの療養所で過ごしてこられた方。自分と同世代の友人たちの多くは、兵隊となって戦死したが、自分はこの病気になったために徴兵を免れた。そうでなければ、自分もキリストを知らずに鹿野(かのや)基地から特攻隊として飛び立っていったかもしれない。キリストの福音を知り、主を信じて生きる自分は本当に幸せだと。
 らい予防法によって隔離され、それ以来筆舌に尽くせない悲惨と苦しみを体験してこられたはずのこの方のロからは、主への感謝以外の言葉は聞かれませんでした。しかし、それを聞く私の心は複雑でした。「それは良かった」などとは決して言えない鉛のような重さを感じていました。ひとつは、私はいったいパンセン病の方々(元患者)に何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。そしてもうひとつ、これ以上の過酷な運命はないと思える自分の人生を、「ハンセン病になったおかげでキリストを知って幸せ」と言えるほどの信仰とは何かということ。それほどの価値がキリストの福音にあることを、私たちは知っているのだろうかと。この大斎節、主よ、主よと主の憐れみを求めます。

2010年3月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年2月

 私は今、札幌の聖ミカエル幼稚園のチャプレンでもあります。毎週月曜日には礼拝堂で幼稚園礼拝があり、先日は私が司式、李司祭がお話しでした。李先生が園児たちに、「君たちが成長するためには何が必要?」と聞くと、子どもたちは、ちゃんとご飯を食べるとか、早く寝るなどと答えます。「それだけじゃみんなは大きくなれないよ。君たちのお母さんがみんなが健康に、いい子に育つようにとお祈りしながら、みんなのご飯やお弁当を毎日一生懸命作っているってこと知っているかい。お父さんたちも、みんなことをとっても大事に思って、毎日働いているんだよ。お母さんもお父さんも君たちを愛しているんだよ。それだけじゃないよ。神様の愛もあるんだよ。太陽の光も、必要な雨も、神様は私たちのためにいつもお与えになるんだ。神様は私たちをどのような時も、優しく愛していてくださるんだよ。そのような愛があるから君たちは大きくなれるんだね。」と言う李先生のお話を園児たちは神妙に聞いていました。
 お話の終わりに李司祭が「みんなが大きくなるのはちゃんと食べて、早く寝て、あと何が必要なんだっけ?」と聞くと、これら四歳、五歳の子どもたちが声を揃えて、「あーい(愛)」と答えました。私は可笑しくて声を出して笑ってしまいました。何てすごい幼稚園なんだろうと。でも、お家に帰って彼らが「大きくなるには愛が必要だ」と言ったら親たちはどんな顔をするでしょうか。

 2010年2月 主教 ナタナエル 植松 誠

2010年1月

 昨年の暮れ、ある信徒のお葬式で、民間の葬儀場に行きました。「僧侶控室」という部屋に入ると、そこの職員がコーヒーとケーキを運んでくれました。聞きますと、キリスト教の牧師さんにはケーキと紅茶またはコーヒー、お坊さんにはお茶と和菓子ということになっているとのことでした。同じことは札幌市内の葬儀場でもありました。それが極めて当然であるかのように思っている葬儀場の職員に敢えて説明をすることはしませんでしたが、キリスト教がそのように思われていることに驚いてしまいました。
 しかしもしかするとそれが日本においてはいまだに一般的なキリスト教理解なのかなとの思いを持ちました。ケーキを好きなお坊さんもいるし和菓子を好きな牧師もいますが、世間は教会を「ケーキ」としてしか見ていないとしたら、それは私たちが教会の宣教を見直す良い出発点になるのではないでしょうか。
 宣教一五〇年を昨年祝いました。その礼拝で説教されたアメリカ聖公会のジェファーツ・ショリ総裁主教は、日本という特異な地で、私たちがどのような宣教をするのかを問いかけ、またカンタベリー大主教は静養のキリスト教をそのまま宣べ伝えるのではなく、日本に合った福音宣教の大事さを「裸足での宣教」という言葉で呼びかけました。
 宣教の主役は信徒だと私は昨年の教区会告辞で述べました。日本社会でクリスチャンとして生きるとはどのようなことかを今年は考えてみませんか。

 2010年1月 主教 ナタナエル 植松 誠