日本聖公会北海道教区第76(定期)教区会 主教告辞

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[教区会開催にあたって]
 北海道教区第76(定期)教区会のためにお集まりくださいました聖職議員、信徒代議員、教区役員、招待議員、またこの教区会のためにご奉仕くださいます書記局、食事のお世話にあたってくださる婦人会の方々、教区事務所職員の皆様に深く感謝いたします。ここにお集まりの多くの方にとって、北海道教区の教役者たち、また他教会の代表にお会いするのは、教区礼拝以外では、この教区会の時だけではないかと思います。北海道教区という広大な教区に点在するそれぞれの教会は小さな群れです。しかし、この教区会で私たちは、キリストを信じて生きる仲間たちがいることに心を強くされます。私はいつも繰り返して申しますが、教区礼拝、教区会、信徒修養会などに集まること自体、私たちが北海道教区においてキリストを信ずる群れであり家族であることを世界に証ししていることだと思います。主なる神様がこの教区会を豊かに祝福してくださいますように、そして、この教区会を通して、イエス・キリストを主と信ずる北海道教区の家族の絆がますます強められ、共に担う宣教への新たな力と希望が与えられますようにと祈ります。

[人事]
 人事について申し上げます。今年3月、上平更聖職候補生が聖公会神学院を卒業され、4月から新札幌聖ニコラス教会に派遣されています。7月には永谷亮執事が司祭に按手されたことは大きな喜びでした。定年退職された後も、嘱託司祭として、また協力司祭として、複数の教会を掛け持ちでお働きくださっている甲斐博邦司祭、藤井八郎司祭、内海信武司祭、大友正幸司祭に深く感謝いたします。また、それ以外にも、いくつもの教会で、主日礼拝の奉仕などをいただいている退職聖職の方々もいらっしゃいます。この場をお借りして感謝申し上げます。李香男(イ・ヒャンナム)司祭は今月末をもちまして北海道教区を離任し、米国聖公会ロス・アンジェルス教区のロドンドビーチ・キリスト教会に赴任します。李司祭は2008年2月、大韓聖公会大田(テジョン)教区から北海道教区に来られ、その後、2014年には聖職籍を大田教区から北海道教区に移籍し、名実ともに、私たち北海道教区の一員として、宣教・牧会に従事してこられました。これまでの9年9か月にわたるお働きを感謝し、新任地であるロス・アンジェルスの教会でのご活躍を祈ります。石坂みゑ子司祭は、来年3月末で定年となられます。石坂司祭は2013年4月、東京教区から北海道教区に来られ、5年間をお勤めくださいました。心から感謝いたします。
 毎年、教区会の度に申し上げることですが、北海道教区では教役者が足りません。今日現在で、現役教役者の数は、主教1名、司祭12名、聖職候補生2名となっています。この中から、今月末に一人、来年3月末でもう一人が減りますと、現役司祭は10名になってしまいます。また、今後5年で、私を含めて3名が定年を迎えます。北海道教区には23の教会と10か所の関連施設がありますが、このように少ない教役者で広大な教区を牧会・宣教するのは一層困難となります。現在、既にほとんどの司祭が、いくつもの教会の牧師また管理牧師、施設の園長、チャプレンの任にあたっていますが、定住牧師のいない教会はますます増えますし、日曜日の礼拝、日常の教会の宣教・牧会にも支障をきたすことが多くなるでしょう。教役者たちの過重な責務は、心身の健康に影響を与えていることも憂慮しています。聖職を養成するのには最低でも5、6年はかかります。北海道教区神学生は、現在のところだれもいませんが、今年4月に聖職候補生志願者として認可された三浦千晴さんが、許されれば、来年4月から神学校に行く予定になっているのは喜ばしいことです。これからも聖職への献身者が興されますように、皆様の篤い祈りをお願いするとともに、そのような人を探し、育て、聖職になるようにお勧めいただくことはこの教区の一人一人の急務です。

[宣教]
  一昨年から、教区の宣教を話し合うための教役者宣教ミーティングが4回開かれました。それは2012年秋に静岡県浜名湖畔で開かれた日本聖公会宣教協議会の提言に基づいて、北海道教区としての宣教の課題を話し合い、その中から実行可能ですぐにでも取り掛かるべきものを選ぶためのものでした。その結果を宣教活動推進部とも協議しながら、第一次として以下のような六つの優先着手課題が決められました。①入院信徒へのミニストリー、②エンディングノートの作成、③ミッションステートメントの明確化、④洗礼・堅信のテキスト、信徒生活ハンドブック作成、⑤講壇交換、⑥インターネット会議です。そられはそれぞれに担当するチームが作られて、作業に入っています。各教会のミッションステートメントは、まずはそれぞれの教会の宣教の夢、ビジョンのような形から始められ、一枚のポスターとなって発表されました。講壇交換も、6月25日、「出会いと交わりの日」として、教区を挙げてすべての教会で行われました。今後、教会の宣教の夢がどのように実現されていくかは、それぞれの教会の主体性の中で、いつも意識化しながら進めていく必要があります。また、講壇交換は、来年度も実施してほしいとの要望がたくさんあります。またこれら以外の課題の中には、始めてみたものの、実行可能と思われたものが、かなり難しい作業で、なかなかはかどっていないものもあります。しかし、それらの課題の困難さが認識できたことも大きな収穫であったと思います。実際に取り組んでみて初めて分かることも多いのです。今後、路線の修正も柔軟に考えながら進めていただきたいと願っています。北海道教区の聖職・信徒にとって、これらが宣教に向かう大事な一歩となることを信じて、これらの課題のために祈り、ご協力くださいますようお願いいたします。これら、宣教の課題の明確化と実行の取り組みの背景には、北海道教区は信徒の減少と高齢化、聖職者の不足、教会建物の老朽化、財政の逼迫など多くの課題に直面しているという現状があります。何とかしなくてはと思いながら、私たちはいろいろ考え、取り組んできましたが、それらが効果的な宣教の結果を生み出していないという現実に私たちは直面してきました。今までも、宣教の掛け声だけは響くのですが、誰がどのように宣教をするのか、或いは、そもそも宣教とは何なのかということに私たちは明確な答えを見いだせないでいたと思います。そして、その問題をさらに突き詰めていくと、いったい私たちはどのような信仰者であるのかというところまで問われていきます。私にとって信仰とは、福音とは、教会とは、礼拝とは、献金とは何なのか。はたして私は信仰を生きるという喜びや感謝の中にいるのか。そのような自分の在り方を脇に置いて宣教を考えても論じても、それはあまり意味のないことだと思います。宣教とは私たちの生き方そのものです。宣教を論じたり方策を立てる前に、私はどのような信仰を生きているのか、なぜ私にとって教会が必要なのか、教会とはどのようなところなのか思いめぐらせることを大事にしたい。宣教とは私たちの生命そのものであり、私たちが生きているということであると私は思います。宣教とは自分の信仰を見つめることから始まると申し上げました。これまで、教区の宣教課題を考える上で、教役者宣教ミーティングでは、このことを大事にしてきたかを私は今反省しています。課題を決めて実行していくこと、それはそれで大事です。それと同時に、自分の信仰者としての生き方を見つめ、自分が神様の愛の中で生かされていることを喜べるようになること、これも私たちにとって大事だと思います。私たちは皆、神様から召命を受けています。一人ひとり、他の人とは異なった賜物をいただいて、それを生かすように召されています。聖職としての召命があり、また信徒には信徒としての召し出しがあります。私たちにとって大事なのは、その召命がどのようなものかを見極めることです。私の信仰はどのようなものであるか、私は何を求めているのか、私にとって何が大事なのか、神様は私にどのような使命を与えていらっしゃるのか、私は今何をすべきなのか。それらはまさに自分の今をどのように生きるかという問いかけなのです。自分が聖職者に召されていると思いながらも、そこには常に恐れと不安があります。私のような者が・・・という自分の弱さと不完全さを知っているからです。自分のような者が、神の言葉を語り、サクラメントを執行し、神の民を整えるということ、そのことで聖職者は悩みます。そしてその恐れと不安は一生続きます。信徒の場合もそうだと思います。信仰とは何か、私の信仰は本物か、このような信仰でいいのかなどと。そのような中で、宣教の課題に取り組むなどと言われると、私たちは身構えてしまうのではないでしょうか。この新しい教区会期、私は、既に挙げられた宣教課題への取り組みを続けながらも、神に召された私たち一人ひとりの生き方にも焦点を当てていければと願っています。信仰者として聖職であれ信徒であれ、神に召された自分の生きざまを見つめ、それと向き合うこと、そして、そこから生じる恐れと不安を持ちながらも、それゆえに謙虚になって、神様の約束である豊かな聖霊のお導きに自分を委ねていくことを学びたいのです。それはまた、それぞれの召命の生き方を互いに認め合い、共鳴し合い、励まし合い、祝福し合うことに繋がっていきます。私たちは弱い、また小さな器です。その中に神様の与えてくださる大きな可能性を秘めています。自分の召命だけにとどまらず、周りの人に、また同労者に与えられている召命を喜び合うところから、私たちは宣教への情熱と力を与えられていくのではないかと思います。またそのような中から、私も聖職になりたいという人が出てくるのではないでしょうか。この一年間、私は教区内外のいろいろな集会に招かれて宣教について話をする機会がありました。そこで私がいつも申し上げることは、宣教とは、第一義的には、自分の信仰の証しです。何か行事やイベントをすることではなく、また何かの運動でもありません。エマオ途上で復活の主に出逢った弟子たちが、エルサレムの教会に飛んで帰って、その一部始終をほかの弟子たちに語ったように、福音を生きる、生きようとしている自分のことを、喜びも、悲しみも、迷いをも証しすること、そして、まずその分かち合いの場が教会だと思います。この教区会期に、それぞれの、また周りの人々の召命や信仰者としての生き方を思い遣り、感謝するような機会が教区的にまたそれぞれの教会で行われることを願っています。

[おわりに]
 この一年間も、私は日本聖公会首座主教の任を負ってきました。また今年7月から今月の30日までは東北教区の管理主教の任にもあたってまいりました。毎週のように、東京はじめ日本各地に、仙台に、また時には海外に出かけることとなり、北海道教区の教区主教の働きを十分果たせなかったことを申し訳なく思います。ただそのような中で、皆様が私の健康を気遣い、祈り続けてくださっていること、また私に代わって様々な働きをしてくださっていることを心より感謝いたします。皆様に祈られていること、支えられていることによって、私はいつも力と 勇気を与えられています。
 これからの一年間、北海道教区、聖職・信徒の皆様が、主の御手の中で守られ、導かれ、豊かに祝福されますように。

主教 ナタナエル 植松 誠