2014年11月

 札幌キリスト教会のH姉は先日81歳で天に召されました。キリスト者であるご主人と結婚したことから教会と関わるようになり、数年後、帯広聖公会で洗礼堅信を受けました。
 ご主人の転勤の度に、転居先の近くの教会で信仰生活を続けました。いろいろ病気のあったご主人にいつも寄り添い、今年3月、ご主人を数年にわたる入院生活の末に天にお送りし、さあ、これからはゆっくりできると誰もが思ったその時に、末期のガンが見つかり入院しました。 医師からは余命があまりないことも告知されました。そのような時、Hさんは、どうしても自宅に戻りたいと強く希望されました。「子どもたちに、主が共におられる。怖れることはない、と伝えたいのです」と。ガンの末期。本人も苦しいし、まわりの家族の方々も心配している時、Hさんは、「主が共におられる。怖れることはない」を何としてでも遺していきたかったのでしょう。Hさんはご自宅で最後の二週間を過ごされました。
 Hさんの三日後、同じく札幌キリスト教会のM姉も主の御もとに召されました。Mさんも81歳でした。Mさんは牧師夫人として、ご主人の牧会宣教を長い間助けました。私が北海道教区に赴任した時、ご主人は重い病でしたが、Mさんの献身的な看病がいつもそこにありました。とても辛いはずなのに、笑いと温かさが溢れるMさんでした。若かった私の赴任時より、母親のように私を見守ってくださり、その優しい眼差しに慰めや励ましをいただいたこともたくさんありました。
 Hさん、Mさん、天国でまたお会いしましょう。
主教 ナタナエル 植松 誠

2014年10月

 先日、東北教区能代キリスト教会の宣教百周年記念礼拝に行きました。私の父方の祖父が牧師として長く務めた教会でもありましたが、私にとっては初めての訪問でした。 記念礼拝の前日、歴史的な建造物があるとのことで、信徒の方が連れて行ってくださいました。もともとは料亭で、つい数年前までは営業していたというその古い総ヒノキの素晴らしい建物は、いたるところ目を瞠(みは)るような美しさや工夫があり、ため息がもれました。説明してくださる方の話の中で一つ特に心に残ったことがありました。この建物に使われている昔のヒノキは成長がゆっくりで年輪の幅が狭い。ところが今のヒノキは地球の温暖化もあって成長が速く、年輪の間隔も倍近く広くなっているとのこと。寒さに耐えて、成長が止まる時期を経、春が来て夏になってもそれほど温かくならないため、少ししか大きくなれないまま、また寒い冬を迎える昔の木。しかし、その頃の木は、どんどん大きくなる今の木とは比べ物にならないほど硬くて強いのだそうです。一年、二年・・・と、ほとんど変わらない年輪を重ねていくことで、何百年と経ったそのヒノキには、想像できないような力が蓄えられているのでした。
 今回訪問した能代の教会は、六、七名の信徒の方々で守っておられます。近隣の教会の方々の協力もあって今回八十名以上の参列者が集まり、記念礼拝も盛大に祝われました。でもその教会からは、どんなに信徒の数が減っても、何かずっしりとした強い、硬い、ゆるぎないものを感じるのでした。それは、寒風にさらされながら、目に見えない速度で成長してきたヒノキと同じ強さなのだと。

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年9月

 ここ教区会館での生活で初めての経験をしました。八角堂の暖炉の煙突にカラスのこどもが入り込んでしまったのです。外から母ガラスが「カア」と鳴くと、煙突の中から子ガラスがそれに応えます。夜、暖炉から煙突を覗き込んで、子ガラスがとまっているところを確かめ、なんとかおびき出そうと試みました。母ガラスの鳴き声を真似てみたり、足をひっかけて引っ張り出そうとしてみたり、ソーセージで釣ってみたり、光をあててみたり・・・。
 こどもと言ってももうかなり大きくなっていて、威嚇するような声を出して拒絶し怒ります。せっかく助けてやろうと思っているのに、このままだと煙突の中で死んでしまうから・・・と言っても勿論この厄介者には通じません。煙突からやって来るサンタクロースならぬサンタカラースの出現に、灰をかぶり、煤だらけになって思いました。人間にとってなんの得にもならない迷惑な鳥であっても、迷い込んだ一羽がなんとも哀れで切なく、なんとか助けたいと手を尽くすのに、全く応じようとしないこの存在。神様の憐れみに気付かず、差し伸べられるみ手を振り払い、自分の思いだけで右往左往している私たち自身の姿と同じではないかと。
 幸いなことに、この子ガラスは、主教巡回で二晩留守にしている間に、自分で降りてきたらしく、八角堂を糞だらけにした後、めでたく母ガラスのもとに帰ることができました。
 私たちがどのような存在であっても、神様の限りない憐れみを受けていること・・・。哀れな子ガラスに自分を重ねて思いました。

 主教 ナタナエル 植松 誠

2014年8月

 米国テキサス州のヘレンから手紙が届き、ご夫君のジェラルド(ジェリー)・マカレスター主教が先月亡くなられたことを知りました。就寝中に心臓が止まり、安らかに召されていかれたとのこと。九一歳でした。ジェリーは私が米国オクラホマ州のイーニッドという町の大学院生であったときのオクラホマ教区主教でした。広大な教区の中の一教会信徒であった留学生の私が、神学校に行きたいという願いを持った時、ジェリーは真剣にまた誠実に対応してくださり、私は種々なプロセスを経て、正式に教区からの神学生として、テキサス州オースチン市の神学校に入学しました。
 その神学校の理事でもあったジェリーは、理事会に来る度に私と家内を訪ねてくれ、長男が生まれた時には、まるで自分の孫のように嬉しそうに抱っこしてくれたのを思い出します。私たちもオクラホマに帰る際には、いつも主教館に寄っては家族のように迎えられたものでした。
 神学校卒業後、ジェリーによって私は執事に按手されましたが、日本に帰りたいという私の思いを話しますと、それを理解してくださり、温かく送り出してくださったのでした。 私が北海道教区主教に選出された時、私は英国と米国を旅行中でしたが、既に退職されていたジェリーはオースチンにいた私にわざわざ会いに来て、主教就任を受諾するようにと勧め、私のために祈ってくれました。そして、自分が現職の時に着ていたコープとマイターをくださいました。私が主教按手の時に着た深紅のコープ、マイターです。
 ジェリー主教とヘレンは米国における私たち夫婦のお父さんとお母さんでした。

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年7月

 昨日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定されました。ここ数年、特に自由民主党が政権に返り咲いてから、特定秘密保護法が制定され、憲法改正に向けた動きが加速し始めました。特に集団的自衛権に関しては、過去の自民党政権でも、それを行使することは憲法九条に反するという一貫した解釈がされていたものを、解釈変更によって、現状の憲法九条の中でも行使が認められるというまったく反対な主張が安倍政権内で行われてきたことに驚いています。そして、それが与党の中でいとも簡単に合意されたことに危機感を覚えます。
 日本聖公会は、戦後五十年目の一九九五年の宣教協議会と、その翌年に開かれた第四九(定期)総会以来、一貫して憲法九条に謳われている戦争放棄、武力による紛争解決の否定を大切なこととしてきました。その立場はランベス会議などでも表明され、高い評価を受けています。
 特定秘密保護法の制定と憲法九条の安易な解釈変更による集団的自衛権行使容認は、私には先の戦争の時代の暗い影が再び忍びよっているように思えてなりません。
 キリストの平和の福音を生きる私たちは、今、何が起きているのか深い関心を持ち、平和を阻害する動きに対しては、毅然と反対するようにと促されていると私は確信しています。
 武力による「紛争解決」は、決して解決にはならないことを、私たちはいやというほど歴史の中で学んできたはずです。先ずは平和的な話し合いによる外交への取り組みが政府に求められているのだと思います。そのために私たちは祈り続けましょう。(七月二日)

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年6月

 北海道に来てから十七年、その間に、初めて聞く言葉や、同じ言葉でも使い方が違うということに気がつきました。例えば、「こわい」という言葉。病人のご家族が、「毎日、こわいこわいと言うので心配なんです」と。私は、いったい何を恐れているのかと思いましたが、話しているうちに、「こわい」というのは「怖れている」ことではなく、体の辛さ、しんどさを表現していることがわかりました。
 一つ、とても心に残った言葉遣いがあります。「痛ましい」という言葉。痛ましい事件、痛ましい現状・・などという使い方を私はしてきましたが、ここで聞いたのは、例えば、食べ物が古くなってしまったけれど、捨てるには「痛ましい」。だから何とかうまく料理して・・というような使い方。もったいないという意味よりも、もっと切ない思いがあり、与えられたものに対する「優しさ」を感じます。
 痛ましい・・。ああ、私たち人間も、神さまにとって本当に「痛ましい」存在なのではないでしょうか。もう使い物にならない、どうしようもないけれど、それでも大事に最後まで、何とかその命をまっとうしてやりたい。そのように切ないほどの優しさを、私たち一人ひとりは神さまから受けている・・と、その言葉から思いをめぐらしました。
 家内が大阪に行っていて、私が一人、夕食を作る時、冷蔵庫の野菜ボックスに忘れられた四分の一のかぼちゃを手に取り、カビの生えたところをきれいに切り取り、味噌汁の具に。私を痛ましいと思ってくださる神さま、私をどのように用いてくださるのでしょうか。

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年5月

 この春の教役者人事異動では七教会で新たな牧師を迎えました。牧師任命式のために、私は四月初めから五月中旬まで、それぞれの教会を回りました。祈祷書の牧師任命式のところに、「新任牧師は説教する」とありますので、私は一か月半、毎主日、司祭たちの説教を聞かせていただきました。主教はいつも巡回先の教会で説教をするので、教役者たちの説教を聞くということはほとんどありません。このような長い期間、説教を準備する必要がないということで、普段あたりまえであった説教作りから解放されて、改めてその大変さを感じさせられました。
 聞く側から見れば一回限りの説教ですが、説教する側としては、その前の一週間、ずっとそのことが頭から離れず、主日に向けて、時には心に呻きをあげながら準備をしていくのです。
 今回、それぞれの新任牧師の説教を聞きながら、説教から伝わってくるその牧師の生きざまに触れるという実感を味わいました。新任ですからそこにある程度の自己紹介があり、それまでの自分の歩みについての話があり、新任地での抱負が語られ、また、牧師として自分は何を大事にしているかということも話されました。その中で、私が感動し、励まされたのは、聖職者として、また一信仰者として、信徒たちを率いていくというような自信とか熱心ではなく、自分の存在の小ささや弱さの中に働いてくださる神への絶対的な信頼がその説教の中にあったことでした。
 主の福音を、主からの召命を生きる聖職者の生きざまを、説教から感じたいと私は願っています。

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年4月

 春になる前に、ひとつ記録にとどめておきたい話があります。 冬のある日曜日、その教会の牧師は釜石での被災者支援のために不在で、ある退職司祭に主日礼拝のご奉仕をお願いしてありました。 暴風雪が荒れ狂う日曜日、片道一時間半はかかる遠路をF司祭夫妻は軽自動車でその教会に向かっていましたが、あと教会まで一〇キロ程のところにきた時、突風によって一瞬のうちに車は道から飛ばされ、側溝に転げ落ち、真っ逆さまになってしまいました。幸い、側溝には雪が積もっていたために、夫妻には怪我はなく、二人はひっくり返った車から這い出しました。 教会ではなかなか到着しないF司祭夫妻のことを信徒たちは心配していましたが、事故にあったという知らせを受けて、信徒が救援に向かいました。側溝でひっくり返っている車の傍にいる夫妻に、すぐレッカー車を手配しようと信徒が言いますと、F司祭は、まずは礼拝に行こうと。それで、事故現場はそのままにして信徒の車で夫妻は教会に行き、心配しながら待っていた信徒たちと主日聖餐式を捧げました。 礼拝後も、皆で愛餐会をして楽しく昼食をとり、それからやっと事故現場に戻っていきました。その間、車は側溝でひっくり返ったまま。近くの農家の方々も一緒になって車を起こし、レッカー車を呼びました。田舎のことで、レッカー車が到着するまでかなり時間がかかりましたが、それで何とか一件落着。でもF司祭の軽自動車はこれで廃車となりました。 F司祭の主日礼拝への熱い思いに、私は大きな感銘を受けました。
 主教 ナタナエル 植松 誠

2014年3月

 私が初めて人事異動を主教から申し渡された時、それに従うことは当然だと思っていましたが、内心、少し不満でした。その教会での自分の働きにかなり自信を持っていたし、その教会のためにも自分の存在がまだまだ必要だと思っていたからでした。「自分が盛り立ててきた教会」という自負があったのでしょう。
 アメリカ聖公会のある司祭の話を聞いたことがあります。彼は会衆の少ない、さびれた教会に赴任し、そこで一生懸命働き、五年ほどの内にその教会を活気のある大教会に成長させました。そのような時に彼は病気になり、その教会を離れることになりました。「信徒たちは自分がここまで導いてきて、自分に従ってきたのだから、新しい牧師にはついていかない」と思いつつ、いつ「あなたでないと駄目です。戻ってきてください」という声がかかるか期待していたそうです。ところがその教会から定期的に送られてくる週報や月報を見ると、自分がいなくても教会は何の支障もなく相変わらず多くの人々が集まっています。いや、新しい牧師を迎えて、さらに生きいきとした教会になっているようでした。ここで、彼は初めて気付かされるのです。自分が築いてきた、自分が導いてきた、自分が成長させたと思ってきたのは大きな誤りであって、それをなさったのは主なる神であったということに。
 私の最初の異動もまさにそれと同じでした。実際、私がいなくても教会は何も困らないどころか、ますます主のお恵みをいただいたし、私の新しい任地の教会にも主は豊かなお導きと祝福を用意してくださっていたのです。

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年2月

 新しいパパ様である教皇フランシスコがアッシジにいらした時のことを、そこにいた人が話してくれました。青年大会にいらしたパパ様は、昼食時に、パパ様や随行の高位聖職者のために用意されていた場所に現れず、捜したら、青年たちと一緒にテントで質素な弁当を召し上がっていたとのこと。それを見て、とっても嬉しかったと。
 そのパパ様が、聖職者と修道者はもっと笑顔でいなさいとおっしゃったのを聞き、そのあまりの単純明快さに思わず拍子ぬけしてしまいましたが、その後、ずっとこのことが心から離れません。考えれば考えるほど、これは崇高な名言のように思えるのです。福音を生き、福音を宣べ伝えるために召された者たち、特に聖職者や修道者たちにとって、笑顔はまさに水戸黄門の印籠のようなもの。「この笑顔が目に入らぬか」と。
 「笑顔」は単に笑顔にとどまりません。教会に来た信徒に、明るく張りのある声で、「おはようございます」と言って迎えることです。誰れとでも新鮮に、その人の目を見ながら話すことです。
 「笑顔」は、ありがとうと言うことです。すぐ、タイミングを逃さずに感謝を伝えることです。
 礼拝の説教でも顔は大事です。無表情だったり、沈んだ声では、いくら周到に準備したものであっても福音は伝わらないでしょう。笑顔は相手の笑顔を誘い出します。説教しながら説教者は会衆の顔を見なくてはなりません。福音は伝わっているだろうかと。
 テントでのパパ様との弁当、パパ様の笑顔で青年たちは福音の真髄を味わったと思います。

主教 ナタナエル 植松 誠

2014年1月

 新しい年の始め、主にある兄弟姉妹の皆様に、「インマヌエル! 主の平和」ご挨拶申し上げます。
 先月二九日は昨年の最後の主日でした。毎年、この日曜日は、どこの教会でも礼拝出席が少なく、この日に主教巡回を要望する教会はまずありません。昨年の二九日も当初は私の予定は空いていたのですが、一二月に入ってから、札幌聖ミカエル教会でこの日に堅信式をすることになりました。
 クリスマスに洗礼を受けた三名を加えて、七名が堅信式を受けました。そのことがあったからでしょう。最後の主日にもかかわらず、礼拝堂はいっぱいでした。七名の内、四人が子どもで最も若いのは八歳の女の子が二人。そこにいる信徒の多くは、彼らを赤ちゃんの頃から知っています。礼拝堂中の温かい眼差しが彼らに注がれる中、堅信式は行われました。「洗礼の約束の再誓約」は堅信者が一緒に言うことにしたのですが、大人と子どものペースが合わなくて、バラバラになってしまい、「もう一度みんなで声を合わせてしましょう」とやり直し。そこでも礼拝堂に優しい笑いがもれました。
 子どもに信仰が分かるか、子どもの信仰は本物か、子どもの信仰は長続きするかとある大人が仰ったそうです。でも私は同じことをその方にお聞きしたい。「大人は信仰が分かるか、大人の信仰は本物か、大人の信仰は長続きするか」と。
 堅信式もゴールではありません。私たちはだれでも天路歴程の途上にいます。「子どもたちを来させなさい」(マタイ一三・一四)というイエス様の御言葉を私は思いながら手を按きました。

主教 ナタナエル 植松 誠